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2007年 03月 01日
1 March 2007 / Chapter 1 - 1 Excerpts
[原文] 2007年3月1日のブログのポスト。
Chapter 1 - 1 Excerpts  (削除済の為、リンクなし)
1章の1の抜粋です。1週間ほど掲載された後、削除されました。もう1回分続きがありましたがそちらも1日経たないうちに消され(保存していなかったのでどんな文章だったのかわかりません)、もっと簡略化された内容に変えられています。


私は1945年5月19日に生まれた。ガタガタと揺れる古い路面電車のような乗り物のデッキに乗り、上部がわずかにカーブを描いている最前列に座っていた1947年よりも少し前のことだ。母と私は西ロンドンのUxbridge RoadにあるActon Hillの最後部にあるTerminusに乗った。路面電車は車庫から素早く出て急に右に曲がり、目のくらむほどの高い地点で短い間赤信号に止まった後、勢いよく下へと降りていった。私達はこの先の私の人生で重要な意味を持つことになるいくつかの場所を通り過ぎた。丘を半分降りたあたりの右手にあるのは私の父が初めて出したレコードが1955年に売られた電気店だった。その向かい側、道の左手には私が17歳だった1962年に初めて本格的に酔っぱらったWhite Hartパブがあった。後にThe Whoへと進化を遂げるスクールバンドThe Detoursとして週1回の契約で出演していた頃のことだ。丘のふもとの左側には犯罪捜査部に私の母の大ファンがいる交番があって、将来私はそこにスイミングプールの外で盗まれた自転車を受け取りにいくことになるのだった。路面電車は丘を降り切ると少し止まり、その左手には大きな金物屋Pooresがあった。完璧に作られ、ラベルが貼られた文字通り何千もの引き出しの中にはおびただしい数の商品が注意深くしまい込まれ、子供の頃の私はすっかり魅了された。次に路面電車は1952年から53年の間、騒がしい日曜の昼の上映を仲間達と通うことになるオデオンシネマを通り過ぎる。道の中心にあるのは私が1954年から56年の間に聖歌隊で英国教会の礼拝の為に歌う聖メアリー教会だ。そこで何百人もの人々が聖餐式に参列するのを見るが、堅信式を受けていない私は自分ではただの一度も参列しなかった。路面電車に乗っている記憶はそこで途切れている。その後何年も路面電車が道に残されていたのを覚えている。路面電車の運行は1874年から始まっており、最初は馬が引いていた。その頃既に馬車があり、Uxbridge Roadの上り下りをせっせとこなしていた。1764 年に交通がスタートした駅馬車はロマンチックな「アクトン・マシーン」という名で呼ばれた。だが路面電車は1936年にアクトンヒルの頂上から走るのをやめてしまい、その後トロリーバスが取って代わった為に、私自身の路面電車での旅の思い出は欠けたものになっている。欠けていたとはいえ — 当時たった2歳だったのだから無理のないことだが — 決して夢ではなかった。

私の夢の多くはこれらの場所で始まった。アクトンパークの隣にあるアクトンマーケットはメインストリートの奥に入ったところにあった。その通りはActon High Streetといい、1961年に私はこの場所で自分が子供から大人へと変化を遂げたと自覚した。なぜなら一日中そこのガードレールに寄りかかって立ち、通り過ぎる人たちを眺めている地元では悪名高いチンピラに名前をつけて勇敢にも挨拶をした。彼は誰彼構わず相手の成長を促す為の無言の挑戦を投げかけているようだった。私は10歳頃、彼と彼の兄にアクトンのスイミングプールで出会った。彼等は私に親しく接してくれたが、彼等のような少年達がその通りを危険な場所にしていた。私はActon High Streetにある全てのビルの屋上がどのような構造になっているか全て完璧に覚えているので、時々夢にこの通りを歩いているシーンが登場する。最近、ここに書いていることを勝手に頭の中で作り上げていないか確認する為にこの通りをもう一度歩いたことがあった。思った通り、小さい部分では多くの変化があったとはいえ、建物は私が子供だった頃と全く同じままだった。少しの間自分があまりに詳しく覚えているので驚いたが、それは勿論当時私が通り過ぎるトロリーバスの上からそれらのビルを眺めていたからだった。その場所からならじっと集中して見ることができるし、西ロンドンの道の治安の悪さからも守られていた。ロンドンのバスの一番高い場所に座っていると、何かの理由でバスに乗るのを避けていると目に入らないこの街の素晴らしい部分を見ることができる。

1947年の夏の終わり、陽の光が降り注ぐビーチで座っていたことを覚えている。私は姿勢良く座らされていた。自分が簡単に立ち上がったり走り回ったりすることができなかったのをはっきりと記憶している。私はほんの小さな子供だった。周りにいる人々の香りがした。潮風、砂、そよ風、太陽。突然私の両親が2頭の馬に乗って現れ、アラブ民族のように砂を撒き散らして、幸せそうにこちらに手を振った後に去っていった。2人を大好きだった私の目には彼等は若く、魅力的で美しい姿に映り、また彼等が現れて再び消えていったことはまるで捕らえどころのない至高のものからの挑戦のようだった。両親は実際にも魅力的だったが、それは信頼できる映像ではなかった。私の記憶の限りではあまりにも美しく催眠にかかってしまいそうな、Felliniの映画のようなものだったからというだけではなく、私を創造の道へと導いた映像でもあったからだ。私はその映像が全く好きではなかった。その2人の馬に乗った人々、つまり私の両親は、私を置いていってしまった。それは私が彼等の美しさや彼等の注目に値しない存在だったからのように思えた。その時私は美しいものは本当ではない、実在しないものだという話を作り上げて自分自身に言い聞かせた。毎回そうだという訳ではない。必ずしもそうではない。良かったし、想像力を刺激されたし、憧れの気持ちを生み出した、しかしそれは私が手に入れられるものではなかった。幻想の世界や、後には創作の世界だけでしか手にすることができなかった。

私の父の父方の祖父はWilliam Townshendという名だった。1850年頃に生まれ、チズウィックで仕立屋の裁断師として働いていた。

1 March 2007 / Chapter 1 - 1 Excerpts_a0062503_22544041.jpg彼には7人の子がいたが、一番下の2人の男の子はインフルエンザで亡くなった。私の祖父のHorace Arthur Townshendは3人目の子供で、1882年に生まれた(写真の一番右に立っているのが祖父だ)。William Townshendは第一次世界大戦の時には既に64歳で兵役には年を取り過ぎていたが、Horaceは32歳だったのでインドで従軍した。彼は30歳を迎える前に若くしてはげ頭となっていた。立派なワシ鼻が目立つ顔をしていて、遠視を矯正する為にふちの厚い眼鏡をかけていた。とても背が高く、痩せていて、毎日どちらかというとエレガントな格好をしていた。写真を見るといつでもズボンのポケットに手を入れた、かなり粋な姿で映っており、時々おかしな持ち方で煙草を持っていた。

1 March 2007 / Chapter 1 - 1 Excerpts_a0062503_22575671.jpgこちらの写真は1948年の祖父Horaceだ。彼は議論の場では気が短い方だったようだ。楽しい集まりごとがあった時でも最後には彼と私の父の些細なことに関する言い合いで幕を閉じていたことを覚えている。彼等はそのような喧嘩をしている時は手に負えなかったようだが、言い分が正当であったとして、折れるべきなのはより年上の方の男ではないかと思う。Anthony Trollopeの小説に登場する同じ名前の主人公と同じく、彼は自分が正しいことを知っていた。Horaceはカーペット問屋の経営者となるが、彼は生まれつき芸術的センスがあり、取引先のショーウィンドウの飾り付けを担当していた。1920年にWhite Cityで開催された国際広告展覧会でショーウィンドウのGordon Selfridge賞に選ばれ、100ポンドを受け取った。それに加えて彼はセミプロのミュージシャン及び作曲家でもあり、1920年代の夏には曲を作っては浜辺や公園、音楽ホールで行われる気軽なコンサート・パーティで披露していた。彼は熟練したフルート奏者で、楽譜を読むことも曲を作ることもできた。しかし彼は気楽な生活を好み、財産を築くようなことはなかった。1908年頃に彼はDorothy Blandford(Dot)と出会った。彼等は演奏者として一緒に働いていた。1910年2月5日、ブレントフォードにてHoraceとDotは結婚した。当時彼女は妊娠8ヶ月頃で、その最初の子供John Horace(Jackと呼ばれた)が1910年3月7日に生まれた。Horaceが28歳で、彼女が22歳の頃のことだった。私の伯父にあたるJackはこの文章を書いている今の時点で存命で、88歳にしてまだまだ元気だ。彼は子供の頃にブライトン埠頭で両親が弱々しく、しかし効果的に大道芸をしていたことを覚えている。2人が劇場で知り合った友達が彼等にも演劇をするように勧め、3人は小さなJackが近くのシェルターから見ている前で歌ったりダンスを踊ったりした。1人の威厳ある女性が歩み寄り、彼等の芸を褒め称えて帽子に1シリングを投げ入れ、「誰の為に」(つまりどのような志の元に)彼等が一緒にいるのか訊ねた。Dotはきっぱりと嘘偽りなく「私達自身の為に」と答え、彼等は結局はそれを仕事にしてしまった。Jackは家族がブライトンに長いあいだ住み、Black Rockにあるコテージのシングルルームでどん底の貧乏暮らしをして、毎日ビーンズを乗せたトーストしか食べるものがなかったと語った。彼の父は演劇で役をもらい、母はダンスの仕事をした。1 March 2007 / Chapter 1 - 1 Excerpts_a0062503_0465570.jpgJackはどちらかというとシャイで物静かな男で、アメリカでレーダーや、後に大画面テレビの開発に携わっていたが、戦後しばらくは公的秘密法に従わなければならなかった。Dotが喜んで乗ったスポーツカー「Whiskers II」を買うことができたのだから、アメリカでの仕事はそこそこ成功したと言えるだろう。

1 March 2007 / Chapter 1 - 1 Excerpts_a0062503_052883.jpgJackは自分の誕生についてTownshend一族の中でどこか恥ずかしさを感じていたかどうかについて話すのを嫌がった。結婚式は気まずいものだったのではないかと私は想像している。Dorothyは戸籍係の前に立った時にどう見ても妊娠中という姿だったはずだし、なぜHoraceが結婚をぎりぎりまで先延ばしにしていたのか不思議に思う。彼は勿論その頃軍隊にいた。Jackが産まれた時にはまだ第一次世界大戦は始まっていなかったが、その時が来ることはもはや疑いの余地もなかった。2人は明らかに金に困っていた。

1 March 2007 / Chapter 1 - 1 Excerpts_a0062503_0522232.jpgDorothyは人目を引く女性だった。苦労人で、気位が高く、ほお骨の形が綺麗だった。彼女は夫と同じくエレガントな服装を心がけていて、歌手でもありダンサーでもあり、楽譜も読めたので時には夫と共にコンサート・パーティのプログラムで活躍した。彼女の母で私の曾祖母にあたるDorothy Williamsのロマンティックな正装写真が残っている。家族が大事に保存していたものだ。そこには素朴なドレスを着て、アコーディオンを抱えた20代の女性が映っている。

私の祖母のDorothyは愉快な女性で、いつでも陽気でポジティブだったが、ややうぬぼれが強く、確かに気取り屋で、社会的な活動に参加するのはあまり気が乗らない性質だった。80年代に皮肉屋でいることが人気を集めたのと同じように、20年代においては気取り屋でいることが流行していた。彼女の父Samuel Blandfordは内装設備の業者を営んでおり、Oscar Wildeの家の毎年の改装工事の責任者だった。そのため娘のDorothyとその姉妹のTrilbyのクリスマス用ドレスは、Wilde家の古いカーテンだったベルベットを使って飾りをつけられていた。結婚した時に彼女は事務員として働いていた。辞めた後は夫の作曲に協力するようになった。

1 March 2007 / Chapter 1 - 1 Excerpts_a0062503_0523568.jpgこの若い夫婦の最初の家は西ロンドンのTurnham Greenにある41 Whellock Roadに建っていた。その家は今もあり、住み心地の良い赤れんが造りの小さなテラス・ハウスで、中流階級の労働者に相応しい質素な建物だった。彼等の持つイメージでは、Whellock Roadは1870年代にJohn Carrの依頼でアイデア溢れる建築家Norman Shawが設計した有名なベッドフォードパークにとても近かった。結婚証明書では2人の住所は「41 Whellock Road, Bedford Park」と記載されている。Whellock Roadは決してこの地域に属したことはなかった。そこにはベッドフォードパークが作られたビクトリア時代においてまず主に聖職者や芸術家、俳優達が買った一戸建ての大きな家が何百も建てられ、今やロンドンの最初の「田園都市」とみなされている。私には何となく、最も比喩的で重要な事実として、より短い時間で、安定した飛行機での旅がHoraceとDorothyが結婚する数年前に可能になったことが挙げられるのではないかと思える。このことは自分の周りの世界が突然広がっていくことに対して不信の目を向けていたこの2人が、法律による制度の外で妊娠した後に結婚を決め、ブライトン埠頭のコンサート・パーティに参加するという一見能天気で軽はずみな行動に出たことの理由を最も明確に表しているようだ。彼等はもしかしたらこれから世界が傾き続け、ぞっとするようなひどい暴力、政治的混乱、耐え難い変化に満ちた時代に入り、陽気な心とささやかなエンターテインメントこそがイギリス人が次の50年間を生き抜く為になくてはならないものになると感じたのかもしれない。飛行機はいつか全て飛び去り、歌が心を満たし、太陽の輝く公園や海辺で行われるパーティが皆の顔に笑顔を浮かべさせるだろう、と。



by yukie909 | 2007-03-01 00:53 | Memoirs


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