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2007年 03月 21日
21 March 2007 / Little Rock and the rest of the tour
[原文] 2007年3月20-21日のブログのポスト。
Little Rock and the rest of the tour
Rogerの体調と残りのツアーについての続報です。2日間で内容が何度も書き換えられ、最終的には残り4公演は予定通り行うという決断が下されました。医師が問題ないと診断したとはいえ、Rogerの体調は万全ではないようです。


今日のうちに、The WhoのマネージャーBill Curbishleyより残りの4公演(リトルロック、オクラホマ、振り替えになったタンパ、 フォートローダーデール)を予定通り行うかどうかの連絡がある。これらの公演が当初の日程で行われなかった場合、恐らく8月に延期されるだろう。できれば中止になってしまったサンアントニオ公演もそこに含めたいと考えている。

Rogerの体は今もある時良くなったと思えばすぐにまた悪くなるといった状態だ。彼はマイアミから再びテキサスに移った。医師がツアー主催者と共に本日彼の様子を見て、彼の健康状態がライブに耐えうるかについて判断する。しかし最終的な決断をするのはBill Curbishleyだ。



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1度目の書き換え。


いい状況だ!Roger本人の気分も見た感じも良くなったようだ。医師も問題ないと言っていた。血液検査の結果が出るのは明日だが、それが大丈夫だということを裏付ける決め手になると思う。4公演はほぼ確実に行われるだろう。米国時間の正午頃にここで最終的な結論を伝える。

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2度目の書き換え。


先ほどは早まって書き込んでしまった。Rogerのナトリウム濃度はまだ非常に低く、現在も下がりつつある。これがいかに深刻な事態か、インターネットで「低ナトリウム血症」と検索してみればわかるはずだ。
このブログをチェックしていてほしい。


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3度目の書き換え。


今期ツアーの残りの4公演は予定通り行われる。Rogerは3人もの医師から出演しても問題ないという診断を受けた。彼はこれから数日間はきつい思いをするだろうが(通常より短い日数の中で多くの公演をこなさなければならない)、きっと素晴らしいライブになるに違いない。長らく待たせてしまって申し訳なかった。リトルロック、オクラホマ、タンパ、フォートローダーデールで会おう。

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4度目の書き換え。「Little Rock and the rest of the tour」というタイトルでの最終的な内容。


リトルロックは最高だった。Rogerは本当によくやってくれた。

残りの3公演は予定通り行われる。Rogerは3人もの医師から出演しても問題ないという診断を受けた。きっと素晴らしいライブになるに違いない。長らく待たせてしまって申し訳なかった。今夜オクラホマで会おう。

日曜がタンパ、月曜がフォートローダーデールでライブだ。


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タイトルを「Return to Tampa - Return to London」に修正してアップされました。これ以降変更はありません。


マイアミでのんびりと春休みを過ごしている。風が強く、雨も多いが、誰も気にしない。振り替えとなったタンパ公演は明日だ。

中止となったメキシコとサンアントニオの公演も日程を組み直すべきではないかと考える人達もいると思うが、来週末にロンドンでライブをしなければならないので残念ながらそれは不可能だ。その次にはヨーロッパツアーが控えている。チケットを買ってくれた人達が皆ちゃんと払い戻しを受けられることを願う。何か問題があった時には、www.thewhotour.comに連絡してどういう状態か知らせてほしい。

私達は今アメリカで行っているツアーの続きを8月中にも行ってはどうかと話し合っていた。しかし現在の不確かな状態を考慮して、この計画は諦め、まずはヨーロッパツアーを乗り切るべきだと判断した。期待してくれていたラスベガスと北東アメリカのファン達には申し訳ないが、楽しいこともいつかは必ず終わるものだ。

先ほども言ったように、The Whoは帰国後すぐにRoyal Albert Hallで重要なライブを行う。Teenage Cancer Trustの為に基金を集める1週間のイベントの最終日を飾るのだ。帰国の旅はきっと心躍るだろう。皆我々の帰りを喜んでくれるだろうし、それがこちらにとっても何より嬉しい。

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# by yukie909 | 2007-03-21 11:29 | blog
2007年 03月 19日
17 March 2007 / San Antonio show is CANCELLED
[原文] 2007年3月17日のブログのポスト。
San Antonio show is CANCELLED
3/13の公演がRogerの不調で突然中断及び延期となった悪いニュースの続報です。


(タイトル)サンアントニオ公演中止
この知らせを友達に伝えてほしい。Ticketmasterがこの情報をメールで送るのは遅くなるだろう。

2日前、Rogerが危険な程にナトリウム数値が低下し、厄介な脱水症状を起こしていることがわかった。彼はこれまでウイルス感染を患っていた。正常な値に戻す為に、病院で数日間点滴を受けるように指示を受けた。イギリスから招いた医師は警戒を要すると判断し、病院に向かう前にとにかく休むように勧めた。彼は現在投薬治療を受けている。どのような治療か私にはわからないが。

本日、Rogerの体調についてまず最初に悪化し、その後やや良くなったという以上の医学的な変化がないため、Bill Curbishley(The Whoのマネージャー)は私の全面的な同意とともに次のサンアントニオ公演を中止した。

Rogerは月曜にマイアミの医師の診断を受け、それにより今期ツアーの残りの公演をどうするかについての決断が下される。このサイトの最新情報から目を離さないでいてほしい。

公演が中止された場合は、チケットの払い戻しや公演振り替えについてできるだけ早く決めるつもりだ。

タンパ公演が中止になった後、私はここオースティンでRachel Fuller、Tom Wright、Ian McLaganやSxSWの委員会と共に活動していたので、Rogerの正確な現状についてはっきりとは知らない。本日ここでの予定を全て終わらせたので、メキシコシティに移動する予定だ。The Who史上初となるはずだったメキシコでのライブも中止せざるを得なくなったことは、誰の目にも明らかだろう。メキシコでライブをする日をずっと待ち望んできた私は、このことについてひどくショックを受けている。もしかしたらいつの日かまたメキシコに戻って、この最悪な騒動に始末をつけることができるかもしれない。

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# by yukie909 | 2007-03-19 12:26 | blog
2007年 03月 18日
18 March 2007 / Pete and Rachel at SxSW
[原文] 2007年3月18日のブログのポスト。
Pete and Rachel at SxSW
SxSWでのAttic Jamは相当楽しい時間だったようで、調子よく写真の説明をしています。


古い友人William Snyderが私達の関わった様々なイベントで撮ってくれた写真だ。William、ありがとう。

a0062503_1549848.jpg2007年South by Southwestで、La Zona Rosaを会場にして行われたAttic Jamで観客を迎えるRachel。

a0062503_15491923.jpg「Drowned」でウォーミング・アップをしている私。

a0062503_15492883.jpgMartha Wainwrightは天使と悪魔を呼び寄せた。その素晴らしい声で……

a0062503_1550237.jpg……そして素晴らしい脚線美で……。

a0062503_15501527.jpg彼女のハンサムなパートナー、Brad。(彼はSean Lennonとも共演した)

a0062503_15505668.jpgWilly Mason。メンバーを増やした新しいバンドを初めてバックにして歌っている。バンドは新しいがシャツはいつもと同じ。

a0062503_15511035.jpgピアノに向かい、うるさいバーから聞こえてくる騒音と張り合っているJoe Purdey。

a0062503_15515298.jpgそれから彼はその場にいたバンドを巻き込んで思い切りハジけた!Joeは私と一緒に「Let My Love Open the Door」を演奏した。(ドラマーはWilly Masonの弟、Sam Mason)

a0062503_1555133.jpg催眠状態のAlexi Murdoch。

a0062503_1603251.jpgAlexi Murdochは更に一歩先を行ってWillyのバンドを全員連れてきた。Bradがベースを弾き、私も入った!リハーサルなし。その信じられないような演奏がBBC Radio 2で聴ける。

a0062503_15553877.jpgRachelはJoni Mitchellの「Blue」を歌い、オヤジ共を全員夢中にさせた。この美しい輝きを持つ曲は、きちんと演奏し歌うことができる者の手によって、奥深くに眠っていた古い宝石が再び磨かれて蘇った。

a0062503_1615934.jpgMika。Attic Jamに初出演してくれた。今回我々が迎えた唯一の新しいアーティストとなる。UKチャートNo.1を記録した曲を携え、彼はAttic Jamの形式ばらない雰囲気の中に飛び込み、熱演してくれた。Mikaは唯一無二の才能で、エネルギーに溢れ、他のアーティストにはない風変わりなところがあり、力強い曲の数々はどこかQueenを思わせるスタイルだが、彼の成功は彼自身の魅力によるものだ。

a0062503_162519.jpgMikaのギタリスト、Mika、私の3人が顔をつきあわせてアコースティックで「Pinball Wizard」を演奏しているところ。Mikaと私の服装がカラー・コーディネイトされている点に注意。

a0062503_15565280.jpgダミ声で「In The Ether」を歌い、グランジ・ファンを追い払っている巨匠の姿。テムズ・エスチュアリーのピアノ教師および教会のオルガン奏者で、それはそれは素敵なRachel Fuller嬢がいつものようにピアノで参加してくれている。

a0062503_15571362.jpgRachelがとうとうテレビに出演した。BlaxeのDirectTVによるAustin Convention Centerのフェスの報道で紹介されたRachelは、見た目もサウンドも素晴らしかった。精巧でプロフェッショナルな仕上がりの、惜しみなく予算をつぎ込んだテレビ番組はまさしくSxSWの新基準となった。ワーオ。

a0062503_15573150.jpgバイバイ、chumps。
(失礼、chumsの間違えだった)

(※日本語にするとわけがわからなくなってしまうので……chumpはバカ、間抜けを表す言葉で、chumは仲間、友達を意味します)

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# by yukie909 | 2007-03-18 15:52 | blog
2007年 03月 15日
15 March 2007 / I want it Live!
[原文] 2007年3月15日のブログのポスト。
I want it Live!
SxSWで行ったスピーチについて、意図していたことと違う解釈をされていると不満を表明しています。


SxSWでの私のスピーチがかなり大きくマスコミに取り上げられているが、どうも問題があるようだ。私は決して「インターネットなんかクソくらえだ。俺達が欲しいのはライブだ!」などとは言っていない。私が言ったのは「もう沢山だ。俺達が欲しいのはライブだ!」ということだ。つまり、私達はライブ・ミュージックをインターネットで手に入れたいという意味だ。なぜ人々は本物の、生の音楽というものをインターネットを介して受け取るのにこれほど苦労しているのだろう?リアルタイムで、目の前で起こるありのままで。スポーツと同じことだ。
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# by yukie909 | 2007-03-15 18:37 | blog
2007年 03月 07日
7 March 2007 / One
[原文] 2007年3月7日のブログのポスト。
One
回想録の抜粋、簡略版の1です。


私は1945年5月19日に生まれた。1946年の夏の終わり、陽の光が降り注ぐビーチで座っていたことをおぼろげに覚えている。周りにいる人々の香りがした。潮風、砂、そよ風、太陽。突然私の両親が2頭の馬に乗って現れ、アラブ民族のように砂を撒き散らして、幸せそうにこちらに手を振った後に去っていった。私はその頃生まれて15ヶ月ほどだった。その出来事によって、私は現実の世界に住むのはやめようと決めた。現実などちっとも好きではなかった。

私の曾祖父母と祖父母たちは誰もが第一次世界大戦の恐ろしさを前線で、また家で目にしている。世界が終わりに向かっているという恐れに満ちた世の中で、若い恋人達がお互いを求め合うのは自然の成り行きだった。私の父の両親にあたるHoraceとDorothyはコンサート・パーティで演奏していた。彼らは私の父を授かったことでその浮かれた暮らしを休止し、忌まわしい戦争の最中、1917年1月18日に私の父Clifford Blandford Townshendが生まれた。十代の頃、父は反抗の道を選んだ。まだハマースミスにあるLatymer Upper Schoolの生徒だった1932年に、彼はバンドに加入した。父が選んだのはボトル・パーティの世界だった。この集会は必要もないのにアメリカの禁酒法時代(1920—1933)の「もぐり酒屋」をイギリス式に真似たものだ。イギリスでは禁酒法なんてものは一切行われていなかった。彼は学生のうちからそういった品の悪いパーティで演奏するようになり、そのせいで深刻なトラブルに巻き込まれていった。当時は誰もが煙草を嗜む時代だった。時にはそれで巻き起こる紫煙の中を通らなければならなかった。洗練や格好良さ、愉快な気分といったものが死や戦争、消滅に対する恐怖を目立たなくした。煙草の煙でできた雲と革新的なポピュラーミュージックの両方に大きな問題が潜んでいた。昔と変わらず、不安を落ち着かせるのにはセックスが最も有効な対処法に思われた。イブニング用の礼装をまとい洗練された姿の男性も内心そのような思いを抱いていた。

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# by yukie909 | 2007-03-07 23:40 | Memoirs
2007年 03月 07日
7 March 2007 / Two photographers from Texas
[原文] 2007年3月7日のブログのポスト。
Two photographers from Texas
インディアナポリス公演に対する友人からの感想を語っています。ステージの背後で流れる映像が新しいものになったようです。


イーリング・アートスクール時代からの古い友人、Tom Wrightがオースティンで開催されたSxSWに登場し、彼の自伝と写真をまとめた本「ROADWORK」を書くプランを発表した。素晴らしい本だ。私も制作に協力する。彼からは昨夜行われた我々のインディアナポリス公演の後にメールが届いた。

「これまでの中でも最高のThe Whoのライブをちょうど見てきたところだ……Peteは白熱したパフォーマンスだった……スクリーンの映像は目を見張るようなものだった……Zakはまるで戦士そのものだった……ソールドアウトの会場を後にする観客の中にがっかりした顔の人は誰一人いなかった。ワーオ!」

a0062503_17242566.jpg一方、長い時間をかけてThe Whoの活動を本にまとめてくれているWilliam Snyderもこのライブを見て「かなり良かった」と思ったそうで、笑顔を浮かべた私が映っているこの写真を送ってくれた。

a0062503_17243844.jpg私の意見?Rogerのヴォーカルは素晴らしい。私は右手の人差指をひどく怪我してしまって今はほとんど演奏できない状態だが、少なくとも足はもう全く痛まなくなっている。Rachelが足への衝撃を和らげるランニングシューズを私に買ってくれた。年寄りがその新しい靴を履いてジャンプしている姿を見てほしい。多分8インチ
(※20センチ)ぐらいは飛べているだろう。

a0062503_17245557.jpg昨夜のインディアナポリスでのライブ、私はMCで背後で流れている素晴らしいビデオには自分はほとんど関わっていないと言ったと思う。いつの日か是非見てみたいとも語った。Williamはメールで新しい映像が気に入ったと言ってくれ、それを証明する為にこの写真を送ってくれた。

だがこのピンク色の少年達は誰だろう………?彼等は本当にテキサス出身なんだろうか?

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# by yukie909 | 2007-03-07 17:26
2007年 03月 07日
5 March 2007 / The Tragically Hip
[原文] 2007年3月5日のブログのポスト。
The Tragically Hip
The WhoのUSツアーでサポートアクトを務めているバンド、The Tragically Hipの宣伝です。


いくつかの公演で彼等に出演してもらえて嬉しい。

彼等の公式サイトをチェックしてみてほしい。

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# by yukie909 | 2007-03-07 00:48 | blog
2007年 03月 01日
1 March February 2007 / Roger Daltrey
[原文] 2007年3月1日のブログのポスト。
Roger Daltrey
63歳を迎えたRogerへのお祝いのメッセージ。なお最初につけられたタイトルは「Roger Daltrey - 12 years old」でしたが、後からRogerの名前のみに修正されました。


誕生日おめでとう、Rog!
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# by yukie909 | 2007-03-01 12:52 | blog
2007年 03月 01日
1 March 2007 / Chapter 1 - 1 Excerpts
[原文] 2007年3月1日のブログのポスト。
Chapter 1 - 1 Excerpts  (削除済の為、リンクなし)
1章の1の抜粋です。1週間ほど掲載された後、削除されました。もう1回分続きがありましたがそちらも1日経たないうちに消され(保存していなかったのでどんな文章だったのかわかりません)、もっと簡略化された内容に変えられています。


私は1945年5月19日に生まれた。ガタガタと揺れる古い路面電車のような乗り物のデッキに乗り、上部がわずかにカーブを描いている最前列に座っていた1947年よりも少し前のことだ。母と私は西ロンドンのUxbridge RoadにあるActon Hillの最後部にあるTerminusに乗った。路面電車は車庫から素早く出て急に右に曲がり、目のくらむほどの高い地点で短い間赤信号に止まった後、勢いよく下へと降りていった。私達はこの先の私の人生で重要な意味を持つことになるいくつかの場所を通り過ぎた。丘を半分降りたあたりの右手にあるのは私の父が初めて出したレコードが1955年に売られた電気店だった。その向かい側、道の左手には私が17歳だった1962年に初めて本格的に酔っぱらったWhite Hartパブがあった。後にThe Whoへと進化を遂げるスクールバンドThe Detoursとして週1回の契約で出演していた頃のことだ。丘のふもとの左側には犯罪捜査部に私の母の大ファンがいる交番があって、将来私はそこにスイミングプールの外で盗まれた自転車を受け取りにいくことになるのだった。路面電車は丘を降り切ると少し止まり、その左手には大きな金物屋Pooresがあった。完璧に作られ、ラベルが貼られた文字通り何千もの引き出しの中にはおびただしい数の商品が注意深くしまい込まれ、子供の頃の私はすっかり魅了された。次に路面電車は1952年から53年の間、騒がしい日曜の昼の上映を仲間達と通うことになるオデオンシネマを通り過ぎる。道の中心にあるのは私が1954年から56年の間に聖歌隊で英国教会の礼拝の為に歌う聖メアリー教会だ。そこで何百人もの人々が聖餐式に参列するのを見るが、堅信式を受けていない私は自分ではただの一度も参列しなかった。路面電車に乗っている記憶はそこで途切れている。その後何年も路面電車が道に残されていたのを覚えている。路面電車の運行は1874年から始まっており、最初は馬が引いていた。その頃既に馬車があり、Uxbridge Roadの上り下りをせっせとこなしていた。1764 年に交通がスタートした駅馬車はロマンチックな「アクトン・マシーン」という名で呼ばれた。だが路面電車は1936年にアクトンヒルの頂上から走るのをやめてしまい、その後トロリーバスが取って代わった為に、私自身の路面電車での旅の思い出は欠けたものになっている。欠けていたとはいえ — 当時たった2歳だったのだから無理のないことだが — 決して夢ではなかった。

私の夢の多くはこれらの場所で始まった。アクトンパークの隣にあるアクトンマーケットはメインストリートの奥に入ったところにあった。その通りはActon High Streetといい、1961年に私はこの場所で自分が子供から大人へと変化を遂げたと自覚した。なぜなら一日中そこのガードレールに寄りかかって立ち、通り過ぎる人たちを眺めている地元では悪名高いチンピラに名前をつけて勇敢にも挨拶をした。彼は誰彼構わず相手の成長を促す為の無言の挑戦を投げかけているようだった。私は10歳頃、彼と彼の兄にアクトンのスイミングプールで出会った。彼等は私に親しく接してくれたが、彼等のような少年達がその通りを危険な場所にしていた。私はActon High Streetにある全てのビルの屋上がどのような構造になっているか全て完璧に覚えているので、時々夢にこの通りを歩いているシーンが登場する。最近、ここに書いていることを勝手に頭の中で作り上げていないか確認する為にこの通りをもう一度歩いたことがあった。思った通り、小さい部分では多くの変化があったとはいえ、建物は私が子供だった頃と全く同じままだった。少しの間自分があまりに詳しく覚えているので驚いたが、それは勿論当時私が通り過ぎるトロリーバスの上からそれらのビルを眺めていたからだった。その場所からならじっと集中して見ることができるし、西ロンドンの道の治安の悪さからも守られていた。ロンドンのバスの一番高い場所に座っていると、何かの理由でバスに乗るのを避けていると目に入らないこの街の素晴らしい部分を見ることができる。

1947年の夏の終わり、陽の光が降り注ぐビーチで座っていたことを覚えている。私は姿勢良く座らされていた。自分が簡単に立ち上がったり走り回ったりすることができなかったのをはっきりと記憶している。私はほんの小さな子供だった。周りにいる人々の香りがした。潮風、砂、そよ風、太陽。突然私の両親が2頭の馬に乗って現れ、アラブ民族のように砂を撒き散らして、幸せそうにこちらに手を振った後に去っていった。2人を大好きだった私の目には彼等は若く、魅力的で美しい姿に映り、また彼等が現れて再び消えていったことはまるで捕らえどころのない至高のものからの挑戦のようだった。両親は実際にも魅力的だったが、それは信頼できる映像ではなかった。私の記憶の限りではあまりにも美しく催眠にかかってしまいそうな、Felliniの映画のようなものだったからというだけではなく、私を創造の道へと導いた映像でもあったからだ。私はその映像が全く好きではなかった。その2人の馬に乗った人々、つまり私の両親は、私を置いていってしまった。それは私が彼等の美しさや彼等の注目に値しない存在だったからのように思えた。その時私は美しいものは本当ではない、実在しないものだという話を作り上げて自分自身に言い聞かせた。毎回そうだという訳ではない。必ずしもそうではない。良かったし、想像力を刺激されたし、憧れの気持ちを生み出した、しかしそれは私が手に入れられるものではなかった。幻想の世界や、後には創作の世界だけでしか手にすることができなかった。

私の父の父方の祖父はWilliam Townshendという名だった。1850年頃に生まれ、チズウィックで仕立屋の裁断師として働いていた。

a0062503_22544041.jpg彼には7人の子がいたが、一番下の2人の男の子はインフルエンザで亡くなった。私の祖父のHorace Arthur Townshendは3人目の子供で、1882年に生まれた(写真の一番右に立っているのが祖父だ)。William Townshendは第一次世界大戦の時には既に64歳で兵役には年を取り過ぎていたが、Horaceは32歳だったのでインドで従軍した。彼は30歳を迎える前に若くしてはげ頭となっていた。立派なワシ鼻が目立つ顔をしていて、遠視を矯正する為にふちの厚い眼鏡をかけていた。とても背が高く、痩せていて、毎日どちらかというとエレガントな格好をしていた。写真を見るといつでもズボンのポケットに手を入れた、かなり粋な姿で映っており、時々おかしな持ち方で煙草を持っていた。

a0062503_22575671.jpgこちらの写真は1948年の祖父Horaceだ。彼は議論の場では気が短い方だったようだ。楽しい集まりごとがあった時でも最後には彼と私の父の些細なことに関する言い合いで幕を閉じていたことを覚えている。彼等はそのような喧嘩をしている時は手に負えなかったようだが、言い分が正当であったとして、折れるべきなのはより年上の方の男ではないかと思う。Anthony Trollopeの小説に登場する同じ名前の主人公と同じく、彼は自分が正しいことを知っていた。Horaceはカーペット問屋の経営者となるが、彼は生まれつき芸術的センスがあり、取引先のショーウィンドウの飾り付けを担当していた。1920年にWhite Cityで開催された国際広告展覧会でショーウィンドウのGordon Selfridge賞に選ばれ、100ポンドを受け取った。それに加えて彼はセミプロのミュージシャン及び作曲家でもあり、1920年代の夏には曲を作っては浜辺や公園、音楽ホールで行われる気軽なコンサート・パーティで披露していた。彼は熟練したフルート奏者で、楽譜を読むことも曲を作ることもできた。しかし彼は気楽な生活を好み、財産を築くようなことはなかった。1908年頃に彼はDorothy Blandford(Dot)と出会った。彼等は演奏者として一緒に働いていた。1910年2月5日、ブレントフォードにてHoraceとDotは結婚した。当時彼女は妊娠8ヶ月頃で、その最初の子供John Horace(Jackと呼ばれた)が1910年3月7日に生まれた。Horaceが28歳で、彼女が22歳の頃のことだった。私の伯父にあたるJackはこの文章を書いている今の時点で存命で、88歳にしてまだまだ元気だ。彼は子供の頃にブライトン埠頭で両親が弱々しく、しかし効果的に大道芸をしていたことを覚えている。2人が劇場で知り合った友達が彼等にも演劇をするように勧め、3人は小さなJackが近くのシェルターから見ている前で歌ったりダンスを踊ったりした。1人の威厳ある女性が歩み寄り、彼等の芸を褒め称えて帽子に1シリングを投げ入れ、「誰の為に」(つまりどのような志の元に)彼等が一緒にいるのか訊ねた。Dotはきっぱりと嘘偽りなく「私達自身の為に」と答え、彼等は結局はそれを仕事にしてしまった。Jackは家族がブライトンに長いあいだ住み、Black Rockにあるコテージのシングルルームでどん底の貧乏暮らしをして、毎日ビーンズを乗せたトーストしか食べるものがなかったと語った。彼の父は演劇で役をもらい、母はダンスの仕事をした。a0062503_0465570.jpgJackはどちらかというとシャイで物静かな男で、アメリカでレーダーや、後に大画面テレビの開発に携わっていたが、戦後しばらくは公的秘密法に従わなければならなかった。Dotが喜んで乗ったスポーツカー「Whiskers II」を買うことができたのだから、アメリカでの仕事はそこそこ成功したと言えるだろう。

a0062503_052883.jpgJackは自分の誕生についてTownshend一族の中でどこか恥ずかしさを感じていたかどうかについて話すのを嫌がった。結婚式は気まずいものだったのではないかと私は想像している。Dorothyは戸籍係の前に立った時にどう見ても妊娠中という姿だったはずだし、なぜHoraceが結婚をぎりぎりまで先延ばしにしていたのか不思議に思う。彼は勿論その頃軍隊にいた。Jackが産まれた時にはまだ第一次世界大戦は始まっていなかったが、その時が来ることはもはや疑いの余地もなかった。2人は明らかに金に困っていた。

a0062503_0522232.jpgDorothyは人目を引く女性だった。苦労人で、気位が高く、ほお骨の形が綺麗だった。彼女は夫と同じくエレガントな服装を心がけていて、歌手でもありダンサーでもあり、楽譜も読めたので時には夫と共にコンサート・パーティのプログラムで活躍した。彼女の母で私の曾祖母にあたるDorothy Williamsのロマンティックな正装写真が残っている。家族が大事に保存していたものだ。そこには素朴なドレスを着て、アコーディオンを抱えた20代の女性が映っている。

私の祖母のDorothyは愉快な女性で、いつでも陽気でポジティブだったが、ややうぬぼれが強く、確かに気取り屋で、社会的な活動に参加するのはあまり気が乗らない性質だった。80年代に皮肉屋でいることが人気を集めたのと同じように、20年代においては気取り屋でいることが流行していた。彼女の父Samuel Blandfordは内装設備の業者を営んでおり、Oscar Wildeの家の毎年の改装工事の責任者だった。そのため娘のDorothyとその姉妹のTrilbyのクリスマス用ドレスは、Wilde家の古いカーテンだったベルベットを使って飾りをつけられていた。結婚した時に彼女は事務員として働いていた。辞めた後は夫の作曲に協力するようになった。

a0062503_0523568.jpgこの若い夫婦の最初の家は西ロンドンのTurnham Greenにある41 Whellock Roadに建っていた。その家は今もあり、住み心地の良い赤れんが造りの小さなテラス・ハウスで、中流階級の労働者に相応しい質素な建物だった。彼等の持つイメージでは、Whellock Roadは1870年代にJohn Carrの依頼でアイデア溢れる建築家Norman Shawが設計した有名なベッドフォードパークにとても近かった。結婚証明書では2人の住所は「41 Whellock Road, Bedford Park」と記載されている。Whellock Roadは決してこの地域に属したことはなかった。そこにはベッドフォードパークが作られたビクトリア時代においてまず主に聖職者や芸術家、俳優達が買った一戸建ての大きな家が何百も建てられ、今やロンドンの最初の「田園都市」とみなされている。私には何となく、最も比喩的で重要な事実として、より短い時間で、安定した飛行機での旅がHoraceとDorothyが結婚する数年前に可能になったことが挙げられるのではないかと思える。このことは自分の周りの世界が突然広がっていくことに対して不信の目を向けていたこの2人が、法律による制度の外で妊娠した後に結婚を決め、ブライトン埠頭のコンサート・パーティに参加するという一見能天気で軽はずみな行動に出たことの理由を最も明確に表しているようだ。彼等はもしかしたらこれから世界が傾き続け、ぞっとするようなひどい暴力、政治的混乱、耐え難い変化に満ちた時代に入り、陽気な心とささやかなエンターテインメントこそがイギリス人が次の50年間を生き抜く為になくてはならないものになると感じたのかもしれない。飛行機はいつか全て飛び去り、歌が心を満たし、太陽の輝く公園や海辺で行われるパーティが皆の顔に笑顔を浮かべさせるだろう、と。


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# by yukie909 | 2007-03-01 00:53 | Memoirs
2007年 02月 28日
28 February 2007 / Thank you Melissa Riggio and family
[原文] 2007年2月28日のブログのポスト。
Thank you Melissa Riggio and family
2/19付の日記に登場したダウン症を持つ少女へのお礼の言葉。大手書店の社長の娘である彼女に軽いジョークを飛ばしています。


思いがけず花のプレゼントを受け取った!
Melissa、私達は君と音楽活動ができてとても嬉しい。
(次のプレゼントは本にするといい。君のパパなら安く手に入るだろうから)

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# by yukie909 | 2007-02-28 23:10 | blog