カテゴリ:Memoirs( 5 )

2012年 09月 30日
'Who I Am' book review by Rolling Stone
[原文] 2012年9月28日のRolling Stone公式サイト掲載の記事。
Book Review: Pete Townshend's 'Who I Am' Could Be the Most Conflicted Rock Memoir of All Time
何年も前から書いてる書いてると繰り返していた自伝がようやく発売となります。『ローリング・ストーン』誌で星4つ半を獲得した書評を訳してみました。管理人も一ファンとして予約していますが、544ページというボリュームを読みきれるかどうかちょっと自信がありません。それでも本人曰く「1,000ページあったのを削った」とのことです。


これまで長く音楽によって自己をさらけ出してきたピート・タウンゼンドだったが、引き出しにはまだ秘密を隠し持っていた。そしてとうとう『WHO I AM』にてそれを解禁する。長く待たれていた彼の自伝は実に深く掘り下げられており、そこまで自分を痛めつけて良いものかと思われるほどに率直な内容となっている。ロックの神と崇められる彼が、人間としての弱さを洗いざらいぶちまけた。本書で見られるタウンゼンドの姿は終始傷つきやすく、特に幼い頃に受けた性的虐待のつらい思い出はその最たるものである。親にそばにいて守ってもらえずに加害者のなすがままにされた、そのような幼少時の経験について、彼はイギリスの戦後世代の象徴と見ている。このトラウマは1969年の『トミー』の成功へと繋がった。しかしそれによって生まれた怒りや恥辱感、自分には価値がないという感情は、努力の末に音楽界で頂上にのぼり詰めた後でさえも、彼の胸から消えることはなかった。

タウンゼンドはザ・フーがホテルの部屋を壊し続けた日々やキース・ムーンの狂気に関する多くのエピソードを挙げている。また、ドラッグやセックス(『ミックは私がファックしたいと真剣に願った唯一の男だ』、等)についてもざっくばらんに語っている。空いたグラスと割られた鏡の数は相当なものである
(※empty glasses and smashed mirrors、Peteのアルバム名や『トミー』とかけています)。しかし彼はロックスターの神話が失われることを恐れてそうした訳ではない。むしろ自身の欠点や矛盾(「怒れる不良少年」として荒々しくギターを弾くステージでの自分とそれに対する内省的な作曲家の自分、精神的な求道者としての自分とそれに対する快楽主義的な麻薬中毒者の自分)を探ることで祭り上げられた状態を止めたいと願っているかのように感じられる。彼はコカインと酒に溺れて何年も無駄にしてもなおミハー・ババの信者となった。彼は語る。「精神的に何かを求めようとしても、あまりにも世俗的な野望に常に周りを囲まれ、懐疑主義と両面性に傷つけられ、そして性的な渇望を抱え込んでいた……正直に言って完全なろくでなしとして振舞うことだってできた」

彼は古くからの仲間達についても綴っている。ロジャー・ダルトリーを「自他共に認めるリーダー」とし、ジョン・エントウィッスルについては懐かしい日々の思い出と共に振り返る。「2人で話していると、いつも安物のギターを手にしたアクトンに住む13歳の少年の頃に戻ったようだった。フィッシュ&チップスを食べながらシャドウズのように売れっ子になることを夢見ていたあの頃に」
また彼はザ・フーがライブ・バンドとして高く評価されていることを誇る。ビル・グレアムのプロモートによりメトロポリタン・オペラ・ハウスで『トミー』の公演を行った際、バンドがステージから下りるのを観客が許さなかったというエピソードでは、タウンゼンドは楽屋でこう豪語した。「ビル、俺達をステージに上げるのは簡単だ。下ろす方がずっと難しいぜ」

しかし彼は自分の功績をずらずらと並べ立てたい訳ではない(例えば自身の傑作であるソロLP、1972年発売の『フー・ケイム・ファースト』についてはたったの一言も触れられていない)。その代わりに、彼は自分の欠点と不安定さを認めようと努めている。80年代前半、バンドがキース・ムーン抜きでやっていこうと足掻いた後に、タウンゼンドは気が変になりそうだと感じていた。彼の言葉を借りると「私はパーティ好きな男、名誉あるパンクの遊び人兼年長の指導者として振る舞い始めた……マフィアのようなだぶだぶのスーツと厚底の靴を履き、薄くなった髪をロックンローラーっぽく頭の上にかき集めてね。私のダンスはなかなか上手かった。イディオット・ダンス
(※60年代後半に流行したダンスのスタイル。その場で立ったまま腕や手を激しくくねらせたり、振ったりする。キンクスの曲にも登場)はもうやめにして、クラッシュのミック・ジョーンズやポール・シムノンみたいに踊ったんだ。当時私は34歳で、まだ若かったからうまくやってのけることができた」

だからといって、ピート・タウンゼンドのことを彼を愛する内気な十代のファンと同じぐらい自意識過剰だと考えるのはおかしな話だ。彼は一人のアーティストとして、男性として、父親としての自分に深い疑いを抱いてもいる(本書には80年代前半に彼の娘から送られた、ラジオで『ユー・ベター・ユー・ベット』を耳にしてパパを恋しく思ったという悲しいメモ書きが紹介されている)。誰もが彼の文体をあまりにも格調高いのではと予期していたことと思うが、そんなことはない。青い瞳の裏側で悪い男になること、悲しい男になることはどのような気分なのか、恐らく誰にもわからないだろう
(※『ビハインド・ブルー・アイズ』の歌詞の引用)。しかし『WHO I AM』こそは私達が彼に近づくことができる最良の手段である。
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by yukie909 | 2012-09-30 01:47 | Memoirs
2007年 03月 07日
7 March 2007 / One
[原文] 2007年3月7日のブログのポスト。
One
回想録の抜粋、簡略版の1です。


私は1945年5月19日に生まれた。1946年の夏の終わり、陽の光が降り注ぐビーチで座っていたことをおぼろげに覚えている。周りにいる人々の香りがした。潮風、砂、そよ風、太陽。突然私の両親が2頭の馬に乗って現れ、アラブ民族のように砂を撒き散らして、幸せそうにこちらに手を振った後に去っていった。私はその頃生まれて15ヶ月ほどだった。その出来事によって、私は現実の世界に住むのはやめようと決めた。現実などちっとも好きではなかった。

私の曾祖父母と祖父母たちは誰もが第一次世界大戦の恐ろしさを前線で、また家で目にしている。世界が終わりに向かっているという恐れに満ちた世の中で、若い恋人達がお互いを求め合うのは自然の成り行きだった。私の父の両親にあたるHoraceとDorothyはコンサート・パーティで演奏していた。彼らは私の父を授かったことでその浮かれた暮らしを休止し、忌まわしい戦争の最中、1917年1月18日に私の父Clifford Blandford Townshendが生まれた。十代の頃、父は反抗の道を選んだ。まだハマースミスにあるLatymer Upper Schoolの生徒だった1932年に、彼はバンドに加入した。父が選んだのはボトル・パーティの世界だった。この集会は必要もないのにアメリカの禁酒法時代(1920—1933)の「もぐり酒屋」をイギリス式に真似たものだ。イギリスでは禁酒法なんてものは一切行われていなかった。彼は学生のうちからそういった品の悪いパーティで演奏するようになり、そのせいで深刻なトラブルに巻き込まれていった。当時は誰もが煙草を嗜む時代だった。時にはそれで巻き起こる紫煙の中を通らなければならなかった。洗練や格好良さ、愉快な気分といったものが死や戦争、消滅に対する恐怖を目立たなくした。煙草の煙でできた雲と革新的なポピュラーミュージックの両方に大きな問題が潜んでいた。昔と変わらず、不安を落ち着かせるのにはセックスが最も有効な対処法に思われた。イブニング用の礼装をまとい洗練された姿の男性も内心そのような思いを抱いていた。

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by yukie909 | 2007-03-07 23:40 | Memoirs
2007年 03月 01日
1 March 2007 / Chapter 1 - 1 Excerpts
[原文] 2007年3月1日のブログのポスト。
Chapter 1 - 1 Excerpts  (削除済の為、リンクなし)
1章の1の抜粋です。1週間ほど掲載された後、削除されました。もう1回分続きがありましたがそちらも1日経たないうちに消され(保存していなかったのでどんな文章だったのかわかりません)、もっと簡略化された内容に変えられています。


私は1945年5月19日に生まれた。ガタガタと揺れる古い路面電車のような乗り物のデッキに乗り、上部がわずかにカーブを描いている最前列に座っていた1947年よりも少し前のことだ。母と私は西ロンドンのUxbridge RoadにあるActon Hillの最後部にあるTerminusに乗った。路面電車は車庫から素早く出て急に右に曲がり、目のくらむほどの高い地点で短い間赤信号に止まった後、勢いよく下へと降りていった。私達はこの先の私の人生で重要な意味を持つことになるいくつかの場所を通り過ぎた。丘を半分降りたあたりの右手にあるのは私の父が初めて出したレコードが1955年に売られた電気店だった。その向かい側、道の左手には私が17歳だった1962年に初めて本格的に酔っぱらったWhite Hartパブがあった。後にThe Whoへと進化を遂げるスクールバンドThe Detoursとして週1回の契約で出演していた頃のことだ。丘のふもとの左側には犯罪捜査部に私の母の大ファンがいる交番があって、将来私はそこにスイミングプールの外で盗まれた自転車を受け取りにいくことになるのだった。路面電車は丘を降り切ると少し止まり、その左手には大きな金物屋Pooresがあった。完璧に作られ、ラベルが貼られた文字通り何千もの引き出しの中にはおびただしい数の商品が注意深くしまい込まれ、子供の頃の私はすっかり魅了された。次に路面電車は1952年から53年の間、騒がしい日曜の昼の上映を仲間達と通うことになるオデオンシネマを通り過ぎる。道の中心にあるのは私が1954年から56年の間に聖歌隊で英国教会の礼拝の為に歌う聖メアリー教会だ。そこで何百人もの人々が聖餐式に参列するのを見るが、堅信式を受けていない私は自分ではただの一度も参列しなかった。路面電車に乗っている記憶はそこで途切れている。その後何年も路面電車が道に残されていたのを覚えている。路面電車の運行は1874年から始まっており、最初は馬が引いていた。その頃既に馬車があり、Uxbridge Roadの上り下りをせっせとこなしていた。1764 年に交通がスタートした駅馬車はロマンチックな「アクトン・マシーン」という名で呼ばれた。だが路面電車は1936年にアクトンヒルの頂上から走るのをやめてしまい、その後トロリーバスが取って代わった為に、私自身の路面電車での旅の思い出は欠けたものになっている。欠けていたとはいえ — 当時たった2歳だったのだから無理のないことだが — 決して夢ではなかった。

私の夢の多くはこれらの場所で始まった。アクトンパークの隣にあるアクトンマーケットはメインストリートの奥に入ったところにあった。その通りはActon High Streetといい、1961年に私はこの場所で自分が子供から大人へと変化を遂げたと自覚した。なぜなら一日中そこのガードレールに寄りかかって立ち、通り過ぎる人たちを眺めている地元では悪名高いチンピラに名前をつけて勇敢にも挨拶をした。彼は誰彼構わず相手の成長を促す為の無言の挑戦を投げかけているようだった。私は10歳頃、彼と彼の兄にアクトンのスイミングプールで出会った。彼等は私に親しく接してくれたが、彼等のような少年達がその通りを危険な場所にしていた。私はActon High Streetにある全てのビルの屋上がどのような構造になっているか全て完璧に覚えているので、時々夢にこの通りを歩いているシーンが登場する。最近、ここに書いていることを勝手に頭の中で作り上げていないか確認する為にこの通りをもう一度歩いたことがあった。思った通り、小さい部分では多くの変化があったとはいえ、建物は私が子供だった頃と全く同じままだった。少しの間自分があまりに詳しく覚えているので驚いたが、それは勿論当時私が通り過ぎるトロリーバスの上からそれらのビルを眺めていたからだった。その場所からならじっと集中して見ることができるし、西ロンドンの道の治安の悪さからも守られていた。ロンドンのバスの一番高い場所に座っていると、何かの理由でバスに乗るのを避けていると目に入らないこの街の素晴らしい部分を見ることができる。

1947年の夏の終わり、陽の光が降り注ぐビーチで座っていたことを覚えている。私は姿勢良く座らされていた。自分が簡単に立ち上がったり走り回ったりすることができなかったのをはっきりと記憶している。私はほんの小さな子供だった。周りにいる人々の香りがした。潮風、砂、そよ風、太陽。突然私の両親が2頭の馬に乗って現れ、アラブ民族のように砂を撒き散らして、幸せそうにこちらに手を振った後に去っていった。2人を大好きだった私の目には彼等は若く、魅力的で美しい姿に映り、また彼等が現れて再び消えていったことはまるで捕らえどころのない至高のものからの挑戦のようだった。両親は実際にも魅力的だったが、それは信頼できる映像ではなかった。私の記憶の限りではあまりにも美しく催眠にかかってしまいそうな、Felliniの映画のようなものだったからというだけではなく、私を創造の道へと導いた映像でもあったからだ。私はその映像が全く好きではなかった。その2人の馬に乗った人々、つまり私の両親は、私を置いていってしまった。それは私が彼等の美しさや彼等の注目に値しない存在だったからのように思えた。その時私は美しいものは本当ではない、実在しないものだという話を作り上げて自分自身に言い聞かせた。毎回そうだという訳ではない。必ずしもそうではない。良かったし、想像力を刺激されたし、憧れの気持ちを生み出した、しかしそれは私が手に入れられるものではなかった。幻想の世界や、後には創作の世界だけでしか手にすることができなかった。

私の父の父方の祖父はWilliam Townshendという名だった。1850年頃に生まれ、チズウィックで仕立屋の裁断師として働いていた。

a0062503_22544041.jpg彼には7人の子がいたが、一番下の2人の男の子はインフルエンザで亡くなった。私の祖父のHorace Arthur Townshendは3人目の子供で、1882年に生まれた(写真の一番右に立っているのが祖父だ)。William Townshendは第一次世界大戦の時には既に64歳で兵役には年を取り過ぎていたが、Horaceは32歳だったのでインドで従軍した。彼は30歳を迎える前に若くしてはげ頭となっていた。立派なワシ鼻が目立つ顔をしていて、遠視を矯正する為にふちの厚い眼鏡をかけていた。とても背が高く、痩せていて、毎日どちらかというとエレガントな格好をしていた。写真を見るといつでもズボンのポケットに手を入れた、かなり粋な姿で映っており、時々おかしな持ち方で煙草を持っていた。

a0062503_22575671.jpgこちらの写真は1948年の祖父Horaceだ。彼は議論の場では気が短い方だったようだ。楽しい集まりごとがあった時でも最後には彼と私の父の些細なことに関する言い合いで幕を閉じていたことを覚えている。彼等はそのような喧嘩をしている時は手に負えなかったようだが、言い分が正当であったとして、折れるべきなのはより年上の方の男ではないかと思う。Anthony Trollopeの小説に登場する同じ名前の主人公と同じく、彼は自分が正しいことを知っていた。Horaceはカーペット問屋の経営者となるが、彼は生まれつき芸術的センスがあり、取引先のショーウィンドウの飾り付けを担当していた。1920年にWhite Cityで開催された国際広告展覧会でショーウィンドウのGordon Selfridge賞に選ばれ、100ポンドを受け取った。それに加えて彼はセミプロのミュージシャン及び作曲家でもあり、1920年代の夏には曲を作っては浜辺や公園、音楽ホールで行われる気軽なコンサート・パーティで披露していた。彼は熟練したフルート奏者で、楽譜を読むことも曲を作ることもできた。しかし彼は気楽な生活を好み、財産を築くようなことはなかった。1908年頃に彼はDorothy Blandford(Dot)と出会った。彼等は演奏者として一緒に働いていた。1910年2月5日、ブレントフォードにてHoraceとDotは結婚した。当時彼女は妊娠8ヶ月頃で、その最初の子供John Horace(Jackと呼ばれた)が1910年3月7日に生まれた。Horaceが28歳で、彼女が22歳の頃のことだった。私の伯父にあたるJackはこの文章を書いている今の時点で存命で、88歳にしてまだまだ元気だ。彼は子供の頃にブライトン埠頭で両親が弱々しく、しかし効果的に大道芸をしていたことを覚えている。2人が劇場で知り合った友達が彼等にも演劇をするように勧め、3人は小さなJackが近くのシェルターから見ている前で歌ったりダンスを踊ったりした。1人の威厳ある女性が歩み寄り、彼等の芸を褒め称えて帽子に1シリングを投げ入れ、「誰の為に」(つまりどのような志の元に)彼等が一緒にいるのか訊ねた。Dotはきっぱりと嘘偽りなく「私達自身の為に」と答え、彼等は結局はそれを仕事にしてしまった。Jackは家族がブライトンに長いあいだ住み、Black Rockにあるコテージのシングルルームでどん底の貧乏暮らしをして、毎日ビーンズを乗せたトーストしか食べるものがなかったと語った。彼の父は演劇で役をもらい、母はダンスの仕事をした。a0062503_0465570.jpgJackはどちらかというとシャイで物静かな男で、アメリカでレーダーや、後に大画面テレビの開発に携わっていたが、戦後しばらくは公的秘密法に従わなければならなかった。Dotが喜んで乗ったスポーツカー「Whiskers II」を買うことができたのだから、アメリカでの仕事はそこそこ成功したと言えるだろう。

a0062503_052883.jpgJackは自分の誕生についてTownshend一族の中でどこか恥ずかしさを感じていたかどうかについて話すのを嫌がった。結婚式は気まずいものだったのではないかと私は想像している。Dorothyは戸籍係の前に立った時にどう見ても妊娠中という姿だったはずだし、なぜHoraceが結婚をぎりぎりまで先延ばしにしていたのか不思議に思う。彼は勿論その頃軍隊にいた。Jackが産まれた時にはまだ第一次世界大戦は始まっていなかったが、その時が来ることはもはや疑いの余地もなかった。2人は明らかに金に困っていた。

a0062503_0522232.jpgDorothyは人目を引く女性だった。苦労人で、気位が高く、ほお骨の形が綺麗だった。彼女は夫と同じくエレガントな服装を心がけていて、歌手でもありダンサーでもあり、楽譜も読めたので時には夫と共にコンサート・パーティのプログラムで活躍した。彼女の母で私の曾祖母にあたるDorothy Williamsのロマンティックな正装写真が残っている。家族が大事に保存していたものだ。そこには素朴なドレスを着て、アコーディオンを抱えた20代の女性が映っている。

私の祖母のDorothyは愉快な女性で、いつでも陽気でポジティブだったが、ややうぬぼれが強く、確かに気取り屋で、社会的な活動に参加するのはあまり気が乗らない性質だった。80年代に皮肉屋でいることが人気を集めたのと同じように、20年代においては気取り屋でいることが流行していた。彼女の父Samuel Blandfordは内装設備の業者を営んでおり、Oscar Wildeの家の毎年の改装工事の責任者だった。そのため娘のDorothyとその姉妹のTrilbyのクリスマス用ドレスは、Wilde家の古いカーテンだったベルベットを使って飾りをつけられていた。結婚した時に彼女は事務員として働いていた。辞めた後は夫の作曲に協力するようになった。

a0062503_0523568.jpgこの若い夫婦の最初の家は西ロンドンのTurnham Greenにある41 Whellock Roadに建っていた。その家は今もあり、住み心地の良い赤れんが造りの小さなテラス・ハウスで、中流階級の労働者に相応しい質素な建物だった。彼等の持つイメージでは、Whellock Roadは1870年代にJohn Carrの依頼でアイデア溢れる建築家Norman Shawが設計した有名なベッドフォードパークにとても近かった。結婚証明書では2人の住所は「41 Whellock Road, Bedford Park」と記載されている。Whellock Roadは決してこの地域に属したことはなかった。そこにはベッドフォードパークが作られたビクトリア時代においてまず主に聖職者や芸術家、俳優達が買った一戸建ての大きな家が何百も建てられ、今やロンドンの最初の「田園都市」とみなされている。私には何となく、最も比喩的で重要な事実として、より短い時間で、安定した飛行機での旅がHoraceとDorothyが結婚する数年前に可能になったことが挙げられるのではないかと思える。このことは自分の周りの世界が突然広がっていくことに対して不信の目を向けていたこの2人が、法律による制度の外で妊娠した後に結婚を決め、ブライトン埠頭のコンサート・パーティに参加するという一見能天気で軽はずみな行動に出たことの理由を最も明確に表しているようだ。彼等はもしかしたらこれから世界が傾き続け、ぞっとするようなひどい暴力、政治的混乱、耐え難い変化に満ちた時代に入り、陽気な心とささやかなエンターテインメントこそがイギリス人が次の50年間を生き抜く為になくてはならないものになると感じたのかもしれない。飛行機はいつか全て飛び去り、歌が心を満たし、太陽の輝く公園や海辺で行われるパーティが皆の顔に笑顔を浮かべさせるだろう、と。


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by yukie909 | 2007-03-01 00:53 | Memoirs
2007年 02月 25日
25 February 2007 / Pete Townshend (who he?) – Prologue
[原文] 2007年2月25日のブログのポスト。
Pete Townshend (who he?) – Prologue  (コメント不可)
Prologue  (コメント可)
いよいよ自伝の掲載がスタートしました。まずはプロローグの部分です。


ショービジネス。それが私も最も古い記憶だ。よく耳にするようなフレーズを誰かが合図のように口笛で吹く。その合図にエコーつきで返事がくる。フレーズのリフレインがミュージシャン達の間を軽々とやり取りされる。第二次世界大戦が終わったちょうど15ヶ月後、私の父がバンドで活動していたバトリンズ・ホリデー・キャンプの近くのビーチで、私は座って友人の世話をしていた。見上げると美しい若者が2人、巨大な馬にまたがって駆けているのが目に入った。馬は海辺の空気に霧のような息を吹き込み、軽やかにダンスをして、櫛のように弧を描く波に砂を投げかけていた。私の両親が手を振り、向きを変えて、遠くへと駆け抜けていった。音楽と笑い声を残して。

後になってからの思い出。私はせっけんまみれの湯からまた頭を引きずり出されて水と共に胃液を吐き出した。誰かが私の頭を強く抑え、髪を後ろから鷲掴みにして引きちぎれんばかりに引っ張った。ヒリヒリと痛む両目をこすろうとしても、私の両手は私を苦しめている相手によって背中に回されて易々とひとまとめに握られており、再び顔が水の中に突っ込まれた。何度も何度も、息が吸えた時には必ず喘ぎながら「あんたなんか嫌いだ」「嫌いだ」と悪態をついた。しばらくすると、水栓から落ちてくる最後のせっけんの泡と共に私の抵抗は弱まっていった。私はバスタブの底に裸で横たわった。そこにいるのは母の名を呼びながらすすり泣く、哀れな6歳の少年だった。すると突然暖かいタオルにくるまれてごしごしと拭かれたので、私は再びパニックになり、自分を捕らえた相手に向かってもう一度せっけん水と胃液の混ざったものを吐き出した。そのせいで私は冷たい水の張られたバスタブに再度放り込まれた。

もっと後のこと。私はIntrepid Foxの隣にあるWardour Street地下駐車場に車を停めた。マーキー・クラブを通り過ぎてBrewer Streetへと向かい、角にある私の古いアパートにある美しい半月形の窓を見上げた。ここに来ると気分が落ち着くのは、ソーホーに以前住んでいたことがあるからだ。そしてマーキー・クラブこそThe Whoが音楽活動を始めた頃、5年前の1964年に、ようやく自分達の居場所を見出した場所だからだ。ここはソーホーではなく、私の家であり邸宅だ。それでも、Old Compton StreetからFrith Streetへと向かう角を曲がる時には私の心臓が早鐘を打ち始めた。私は「こんなことは無駄だ」とよく使われる言い回しで自分に言い聞かせた。恐れを感じるなど無意味だ。恐れるものなど何もない。私はもう大の大人だ。私を痛めつける者などもういないのだ。20分後にThe WhoはRonnie Scott's Jazz Clubで新しいロックオペラ「TOMMY」をマスコミに向けて演奏する。これが批評家達の前で行う我々の最初のライブパフォーマンスとなる。Dean Streetを横切った時、「ユダ!」と叫ぶ声が聞こえたような気がした。私はBob Dylanにでもなったつもりなのだろうか?
(※「ユダ」はBob Dylanがフォークからロックへと移行した頃に、コンサート中にフォークファンから「裏切り者」という意味で浴びせられたブーイングを指します)すると誰かが私の身内の間でのニックネーム、「トラウザー!」と叫んでいるのに気がついた。声のする方に目をやると少数の男達のグループで、集まって旅をしているマーキー時代からのThe Whoファンの一団に入っている者たちだった。一同を率いているのは仰々しい態度の音楽ジャーナリストで、私はいつも彼のことを自分の支持者だと思っていたが、すでに少し酔っているようだった。彼は私と目を合わせようとしなかった。私は自分の旅の最後の数歩、ギターを手に様々なことを探求する道に、彼等に入り込んでこないでほしかった。彼等にどんなかすかな恐れの気配すら感じてほしくなかった。その恐れは私が自分自身に感じることを許してはならないものだった。彼等のうちの1人が私に気づき、走って私に追いついた。息を切らして、酒の匂いを撒き散らしながら、彼は私に気分はどうだと訊ねた。私は大丈夫だと答えた。彼は心配するな、もし誰もが「TOMMY」は最低だと言ったとしても、そう思わない人もいる、ショービジネスの世界においてはわずかな議論では誰も傷つかない、と語った。
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by yukie909 | 2007-02-25 10:49 | Memoirs
2007年 02月 19日
19 February 2007 / What Am I Doing Here?
[原文] 2007年2月19日のブログのポスト。
What Am I Doing Here?  (コメント不可)
Pitch  (コメント可)
このブログが開設された経緯を説明しています。「The Boy Who Heard Music」の連載がうまくいったので、今度は自伝でも同じことを試みるということのようです。


1995年、私は自伝を書こうと決めた。1996年にはEd Victorに交渉を頼んでLittle Brown & Co社のMichael Pietschと契約を交わした。素晴らしい話だったし、個人的に仕事を依頼していた編集者Robert McCrumに任せていたので安心していた。彼は私がFaber & Faber社で数年間顧問編集者として働いていた時に私の編集主任(事実上私の先輩だった)を勤めてくれ、私の本「Horse's Neck」の編集をした時には
何フィートの高さにもなる原稿の山を簡潔にまとめてき濃縮された短編集を作り上げてくれた。1997年、Michael Pietschとはこの計画についての考え方が私とずれていることがわかってきて、支払済みの前金を払い戻して他に契約を結ぶ前に本を完成させようと決断した。Ed Victorは他の編集者Philippa Harrisonと共に編集者の協会を設立していた。Philippaは偶然にもLittle Brown & Co社の設立にも貢献していた女性で、Edは彼女に私の小説が一章分書きあがり次第編集するように頼んだ。彼女は2003年の夏までその作業をしてくれたが、私はそれから「The Boy Who Heard Music」の小説を完成させることに集中するようになった。2005年の初めになってからまた自伝の執筆を再開し、3ヶ月ほど書き進めた。電気会社のSamsungがサポートする「Four Seasons of Hope」チャリティ活動に協力する為、Roger Daltreyと共にニューヨークに旅立ってコンサートを行うという出来事に邪魔されなければ、今までずっと書き続けていられただろう。

そのニューヨーク訪問の際、Rogerが昔のマンハッタン銀行をバンケットホールに改装した会場でステージに座り、最後の曲として私がThe Whoの為に書いた曲「Real Good Looking Boy」を歌っている姿を私はじっと見ていた。彼はギター1本を手に、たった一人で目を閉じてその曲を歌い、彼の昔から変わらないやり方で私の曲に命を吹き込んだだけでなく、完全に彼自身の曲にしてしまっていた。その時私は、The Who、つまり我々2人が、また新たになかなかの出来のアルバムを作ることができると確信した。それからおよそ8ヶ月の間、私は我々の新しいアルバム「ENDLESS WIRE」の為の曲作りに没頭した。

2005年9月、私はそれまで「The Boy Who Heard Music」を演劇や映画、バレエの形にしようと苦労していたが、あまり深刻に考え過ぎないようにしていこうと考え、ブログを使って連載の形で発表することにした。週1回の連載を2006年2月25日まで続け、その全ての過程が沢山の励ましと刺激に満ちたものだと感じた。その間にもらった読者達からの書き込みはとても重要なもので、私は連載している途中で作品に大きな変更を加えた。

自分の自伝でも同じようなことを試みようと考えている。近々この場所で、私の個人的な思い出を記した「Pete Townshend (who he?)」の抜粋の連載をスタートする。前編では子供時代から1968年のロンドンでの「TOMMY」記者会見
(※1969年のタイプミス?ブログ上部の説明文にはBook One - 1945-1969と書かれています)までを取り上げる。また必要だと思った時には、その先から最近までの私の人生とキャリアに関する章からの抜粋も不定期で載せていくつもりだ。

全体の骨格の部分は既に完成し、取材や調査も全て進んでいる。しかし、私は今もなお創造的な、またプロ意識に溢れた毎日を過ごしている為、きっぱりと書くのをやめない限り永遠に現在の部分までたどりつくことができない。書き進めている所なのにきっぱりと書くのをやめなければならないというのは、矛盾に満ちている。よって永遠に書き続けるよりは発表しようと思う。


(※以下、コメント不可のブログにのみ後から追加された文章)
2月25日(日)にプロローグを掲載する。2006年に「The Boy Who Heard Music」の最後のポストをしたのとちょうど同じ日だ。心の準備をしておいてほしい。私の準備は万全だ。
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by yukie909 | 2007-02-19 10:47 | Memoirs