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2007年 12月 21日
21 December 2007 / The Japan Times: 'I carry The Who brand with pride'
[原文] 2007年12月21日のジャパンタイムズ紙記事。
'I carry The Who brand with pride'
最近行われたeメールによるインタビュー。文中に出てくる「ドキュメンタリーの日本でのプレミア上映が決まっている」という部分は、事実かどうか未確認です。
記事を書いているローランド・ケルツについてはこちら参照のこと。ピートはリンク先で紹介されている彼の本の広告にコメントを寄せています。


私がザ・フーのピート・タウンゼンドに最初に会ったのは10年前のことで、その時はロンドンの彼の家に近いホテルにてインタビューを行った。彼は1階のスイートに元気よく現れた。椅子に腰掛け、組んだ足を揺らして、彼は情熱をほとんど抑えることなくそれぞれの質問に答えてくれた。

インタビューは2~3時間で終わるだろうという私の予想に反し、昼食を共にして語り合うことになり、最終的にはタウンゼンドが出かけなければならない午後8時まで1日中話は続いた。彼は帰り際に私にこう約束した。「もしまだどうしても聞きたいことがあるなら、1時間ほどで戻ってくるよ」

当然ながらタウンゼンドはロックの世界で伝説的な人物だ。しかしロックの殿堂入りした自身の仲間達と違って、彼は人並外れて自己批判的な人間で、誰よりも強い信念を持っており、幅広い分野で大きな成果を挙げている。ブロードウェイでの仕事ではトニー賞を獲得し、自身の短編集を出版して、80年代にはイギリスで最も格式ある出版社のひとつであるフェイバー&フェイバー社で編集者としても活躍した。2003年にはインターネットで児童ポルノのページにアクセスしたとしてイギリス警察に逮捕されるという出来事もあった。彼の容疑はその後すぐに晴れ、今となっては彼を標的としたおとり捜査だったのではないかという疑いの声も挙がっている。タウンゼンドの活動にずっと注目してきた私達のような人間にとっては、彼が幼児虐待の恐ろしさについて書き続けていたことや、ずっと昔からその関連のチャリティ活動に後援者として尽くしてきたことはよく知られた事実だ。

ステージ上においては、タウンゼンドはギターを何本も破壊してきた(最後に壊したのは偶然にも横浜でのことだ)。スタジオでは、ザ・フーが誇る2つのロックオペラである『TOMMY』(1969年)と『QUADROPHENIA』(1973年)、また哲学的なソロアルバムの数々によって音楽の既成概念を壊してきた。彼のバンド仲間は、ドラマーのキース・ムーンが1978年に、ベーシストのジョン・エントウィッスルが2002年に亡くなった。1979年には、オハイオ州シンシナティでライブ会場での圧死という事故により11人のファンを失っている。

簡単に言えば、ロック界のスターとしてのタウンゼンドは近寄りがたい人間だ。しかしパンクの先駆けとなったザ・フーという並外れたバンドと同様に、ありのままで生身の、身近な人間としての姿もまた持っている。

1ヶ月前、もう1人の残存メンバーであるロジャー・ダルトリーが来年に日本で初のツアーを行うと発表した。ポール・クローダー、そしてオスカー獲得経験のあるマレー・ラーナー監督によるドキュメンタリー『Amazing Journey: The Story of the Who』は、2008年に日本の映画館でプレミア上映が行われることが決まっている。アメリカとヨーロッパのファンには、クリスマス向けに既にDVDが発売されている。

しかし日本へ行くという話は初耳だ。62歳になるタウンゼンドはしきりにこの国を再訪したがってはいるが(『ぜひとも近いうちに日本で演奏したいと願っている』との発言あり)、今回のeメールでのインタビューでは具体的な日程についての話を出そうとはしなかった。かつて、ザ・フーは常に考えが食い違うバンドだった。メンバーのうち2人しかこの世に残っていない今でも、意見が一致しないことにかけては昔と全く変わっていない。


[Q. 2004年に横浜でのフェス、ロック・オデッセイの為に初めて短期間で日本を訪れた時のことを振り返って頂けますか?2008年の来日についてはどうですか?]

初来日は素晴らしい経験だった。(フェスのメインだった)エアロスミスのゲストとして、我々はVIP扱いをしてもらった。ここまで我々がパワフルだったとは誰も思っていなかったんじゃないかと思う。自分でも目を見張るほど良い演奏ができた。
私は日本をとても好きになったし、そのことに驚いた。ここまで日本を気に入るとは想像していなかったんだ。勿論私には日本人の知り合いも多く、皆良い人ばかりだ。だから彼らの国を好きになることは予想できたはずだった。

[Q. 新しいドキュメンタリーでは、貴方とヴォーカルのロジャー・ダルトリーはバンド仲間としての未来に対して固い決心があるようでした。キース・ムーンを失った30年よりも、今の方がバンドの未来に胸を躍らせていますか?]

かつてのロックはもう長い間死んだままでいる。ロックというものは実に発見の連続だった。一度発見されたものはもう一度再発見されるのを待つしかない。新しい若いファンの目には素晴らしいものに映るだろう。古いファンにとっては昔を懐かしむものとなるだろう。
私は1978年に燃え尽きた訳ではない。キース・ムーンにはうんざりしていた。彼が亡くなり、もうこれ以上彼のことで頭を悩ませずに済むようになって、ある部分ではホッとしていたのも事実だ。私はいつも彼はもう2度と良いライブができないんじゃないかと心配ばかりしていた。しかしまた彼の死はあまりにも痛ましいことでもあった。彼はようやく自分の弱い部分を他人に見せるようになった所だったし、あんなに魅力的な男はいなかったから。彼は親切で、愉快な性格は昔と変わらなかったが、破滅そのものに夢中になる度合いは減ってきていた。
現在、ザ・フーはロジャーと私が大きな誇りを持って維持しているブランドだが、ある程度の不安もまた抱えている。我々の作る音楽は一筋縄ではいかない。

[Q. 昨年ザ・フーの24年ぶりとなる新作『ENDLESS WIRE』が発売されました。貴方自身と聴き手が長年にわたって求め続けてきたものがようやく形になった訳ですが、これで自由になったと感じていますか?]

我々が完全に自由になるということは起こり得ないし、そうなりたいと願ってもいない。たとえそれがある程度は計算の上だったとしても、我々は古いサウンドを再現することができる。私がザ・フーのソングライターとして、これまでずっと受け入れざるを得なかったことは、イーグルスがやったのと同じことをして、ザ・フーのスタイルでアルバムを作り、それを売るというのはできないという事実だ。誰もが我々に新しい姿でいてほしい、賭けに出てもらいたいと期待している。そして同時に、始末に負えない矛盾と言えるのが、彼等は我々が昔のままで変わらないこともまた望んでいるんだ。それほど多くの部分が変わった訳ではない。私の書く曲の幅が広がったというぐらいだ。


(以下翻訳略)
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by yukie909 | 2007-12-21 00:03 | article
2005年 12月 07日
7 December 2005 / Lennon remembered
[原文] 2005年12月7日のIndependent紙記事。
Lennon remembered
12月8日はJohn Lennonの命日です。英国の新聞Independent紙にミュージシャンによる彼についての思い出話が掲載されましたが、その中にPeteの名前もありました。


Johnには数回会ったことがある。一番最初は1964年にThe WhoがThe BeatlesのBlackpoolでのライブの前座を務めた時だった。我々は彼等の前にステージに上がり、カーテンの前で演奏した。その裏にいたJohnは最後の曲を一緒に弾いてくれた。2度目に会ったのはそのずっと後だ。Eric Claptonと私はBrian Epsteinに呼ばれ 8トラックのレコーダーで録音された最新曲「Strawberry Fields Forever」と「Penny Lane」を聞く2人のミュージシャンとなることを求められた。Johnが緊張していたことを覚えている。彼は最初の妻Cynthiaと一緒で、彼女の方がJohnよりもリラックスしていた。その2曲を聞いた私は何も喋れなくなってしまった。Ericが見かねて「もう一度聞いてもいいかい?」と助け舟を出してくれた。食卓の用意が整うと、Johnは「the Goons」から引用して「Pull up a food.」とふざけて言った。(※Johnが大ファンだった1950年代のコメディ・ラジオ番組『The Goon Show』で『Pull up a bollard./どうぞ座って』という言い回しが生まれて頻繁に使われていたそうで、そこから来たもの?)我々は食事をして喋った。彼はEricや私のような「普通の」人間が、彼がしてきたことを知っていて、それを好きだと思っているということにほっとしているようだった。
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by yukie909 | 2005-12-07 15:16 | article
2004年 04月 01日
April 2004 / Uncut interview: Chapter 1 - Losing The Who
[原文] Uncut誌2004年4月号に掲載されたインタビュー。
Chapter 1 - Losing The Who (雑誌掲載記事の為、リンクなし)
※Words by Simon Goddard
第1章は「TOMMY」誕生以前の話です。


Pete Townshendが1966年5月19日に21歳の誕生日を迎えた時、彼はすでに60年代を代表する若者のアンセムを3曲作り上げていた。ポップ・アートの崩壊を示した「Anyway, Anyhow, Anywhere」、階級意識への怒りをあらわにした「Subtitute」、そして何よりも衝撃的な、上の世代に向けて口汚く「フ・フ・ファックオフ!」と言い放つ「My Generation」。Lennon/McCartney、Jagger/Richards、そしてRay Davisらがもてはやされていた時代において、独自の世界を持つ作曲家Townshendの登場は特筆すべき出来事だった。

バンドとしてのThe Whoの存在もまた突出していた。Beatlesがメロディを、Stonesがセックス・アピールを、Kinksがリフを武器としていたなら、The Whoの切り札はワイルドな攻撃性だった。Roger Daltreyの浮かべる冷笑、John Entwistleの揺るぎなさ、Keith Moonのドラムを粉々にする程のアナーキーさ、そしてTownshendの存在。そこには、このシェパーズ・ブッシュの4人の乱暴者達がステージ上で楽器を叩き壊していない時には、ステージの外でお互いに壮絶な殴り合いをしているのではないかと思わせる何かが伺えた。(そしてそれは当たらずとも遠からずと言えた)The Whoは60年代半ばのティーンエイジャー達の怒りを他の誰にもできない方法で代弁した。バンドの破壊パフォーマンスはただ若者が癇癪をおこして暴れるというようなものではなく、Townshendがイーリング・アート・カレッジでの学生時代に関心を寄せていたドイツのコンセプチュアル・アーティストGustav Metzgerによる「自己破壊」マニフェストにヒントを得ていた。

Townshendのモッズ的怒りの表現は鋭い知性に裏打ちされたものだった。外へと向けられる若者の怒りと心の内での思慮という二つの相反するもの同士の関係については、1966年1月に放映された若者向けの番組「A Whole Scene Going」で詳しく描写されており、私はインタビューの前夜に忘れずに見返してきた。Townshendは生意気ながらも率直な態度で、ドラッグをやっていると言って観客を失望させたと思えば、その1分後には深遠な考察を語って彼等を悩ませるといった具合だった。不機嫌そうな顔をしつつはっきりと自分の意見を口にし、背中を丸めた姿勢で質問に答える間、彼は体をゆっくりと左右に揺らしていた。

今回のインタビューの途中、彼が椅子の上で体を揺らし始めた時、私はデジャ・ヴュのような感覚に襲われた。昔より丁寧に受け答えをし、 59歳を迎えた彼には当然のことながら残り少ない髪も白くなり、あごひげを蓄えるようになったが、この昔と同じ癖や話す時の真剣さ、率直さを見るに、2004年1月のPete Townshendは1966年1月の彼とほとんど変わらないと言ってもよかった。

先日The Observer誌が「できればインタビューしたくない相手」と彼を呼んだ程、本題から外れて気まぐれに話をそらすという悪評ばかりが先に立っているが、彼は今もなお人を惹きつける話し手である。次から次へと話題を変えていく様子はまるできわめて知的な(そしてほんのわずかに気の違った)大学学長のようだった。

彼が点と点を結びつけたことにより、
(※TOMMYという)大きな絵を覆っていた霧が消えていった。Tommyに関する「どうやって?」「なぜ?」そして「一体何なんだ?」という謎を解く為には、The Whoの起源にまで遡らなくてはならないとTownshendは主張した。カタルシスを呼ぶような、言葉にできない気持ちとパワーコードのうなりから成るデビューシングルの「I Can't Explain」が、1965年初めにトップ10入りを果たした時から話を始める必要がある、と。

「Whoの歴史を考える時に、」と彼は語りはじめた。「忘れられがちなのは、出発点となったI Can't Explainが必死になってThe Kinksを真似して作った曲だったということだ。俺は心底Ray Davisを崇拝していた。いや、崇拝
(※worship)という言葉は違うな……賞賛(※exalt)していた。RayだけじゃなくてDave Daviesのことも。Kinksはとにかく素晴らしかった。アメリカ人は『Beatles、Stones、The Who』と並び評するが、俺にとっては『Beatles、Stones、The Kinks』だ。三大バンドといえばその3つに決まってる。だからただKinksをコピーしただけのI Can't Explainですら、何とか控えめなヒットになった。だが俺は『これで当座の家賃は凌げるが、その後はまた元通りそれまで学んでいたアートの世界に戻ることになるだろう』と考えていた。(※音楽で身を立てることになるとは)思いもよらなかった」

ある夜、Townshendはメンバー達が生まれ育った西ロンドンでGoldhawk Roadから来た不良少年の集団に囲まれた。その時に彼がはじめて気づいたのは、それまでただの盗作や「音楽的センセーショナリズム」に過ぎないと軽視していたものが、ずっと勉強してきたヴィジュアル・アートなどよりも、実は自分の創造性と若さゆえの怒りを表現する為に有効だったということだった。彼はその時のことを今でもはっきりと覚えている。

「一番偉い奴が出てきて俺に言うんだ。『I Can't Explainはすごい曲だ』俺は『はいはい、どうも』と適当に受け流した。すると相手は言う、『いや、あなたはわかってない。あの曲こそ俺達の気持ちを歌っている』それでも俺はまだいい加減な返事をしていた。すると彼らは俺に掴みかかって(拳骨を振りかざす)『いいや!お前は何もわかっちゃいない!』ときた。そして俺は心の中で思ったんだ、『そうだ、確かに俺はわかっていなかった』と。彼らと別れた後、歩きながらこう考えたことををよく覚えている。『大事なことに気づいたぞ。俺が現代社会におけるひとかどのアーティストになる時がきたようだ。彼こそ俺達の観客なんだ、俺達はすぐにでも彼らみたいな人間の気持ちを代弁することができる。それが俺の仕事だ』
(※最初のリーダーの言葉、"This really means something"のthisがI Can't Explainを差すというのは飛躍した取り方かもしれません。参考までに、同じ状況について1993年にPeteが別のインタビューで語った部分を抜粋します。この内容からThis=ICE?と推測したので。→P:でも「アイ・キャント・エクスプレイン」が出ると、シェパーズ・ブッシュのゴールド・ホーク・クラブからどっとガキが出てきて、どもりながら僕に言うんだ。「こ、こ、これこそ、僕たちの歌だ。あなたは僕たちがずっと言いたかった事を言ってくれた」それで僕は言った、「へぇ、僕はなにを言ったっけ?」すると彼らが「僕たちは自分の感じている事をうまく言えないって」それを聞いて僕は「いや、僕が実際に言ってるのは、きみらにはきみらの感じてる事をうまく言えないってことだ」。でも彼らは「とにかくこれなんだ、あなたにもっと作って欲しい、もっと何か書いて欲しい、いますぐかいてほしい」)
そいつらが薬をキメたモッズの集団だったのは確かだが(にやりと笑う)、何もないよりずっと良かった。Spike Milliganもよく言ってただろう、「ただのキッチンの流しでも僕には我が家」ってね。(※元の文は"It's only a kitchen sink, but it's home to me"。50年代のラジオのコメディー番組「The Goon Show」で、Spike Milliganにより書かれた脚本に"It's only a luxury 50 million pound villa, but it's home to me"というSeagoonの台詞があり、これをもじったもののように見えます)
この時からThe Whoは以前よりも目覚ましくパワフルになり、また重要な役割を帯びるようになった。ロンドンに移ってきたモッズという小さなグループは、既に社会への不満や公民権に関することまでも主張するようになっていた。俺達はモッド・ムーブメントの後ろを追いかけはじめ、なんとかうまく流れに乗ることができた」

1年の間にThe Whoはそれまでの労せず美味しいとこどりをする目立ちたがり屋という存在から、少なくともチャートの上でモッズ達のリーダーへと成長を遂げた。
「俺達はとにかくひたすらイメージ的なものを取り入れた。ポップアートミュージック、ユニオンジャックのジャケット、俺がこだわっていた自己破壊、アートカレッジを終えた後に浮かんだアイデアなど…」
彼が言うには、彼らのコマーシャルとの蜜月時代は65年の初めから67年の終わりまでだった。
「それから俺達は下降線を辿りはじめた。俺達は自分の場所を確保していたけど、それは他の誰かがいられる場所じゃなかった。つまり、俺達は3分間シングルでも、皮肉をこめた曲でも、危険をはらんだ曲でも、セクシャルな曲でも、何をやってもよかった。俺は痩せた子供が煙草のせいで早死にして太った子供が長生きする曲を作り(=Little Billy)、Pictures Of Lilyでマスターベーションを取り上げ、I'm A Boyでトランスセクシャル
(※この語そのものは「自分の内面・精神とは逆の性別の身体に生まれてしまった人」に対して使われますが、この曲の場合は「生まれる子供の性別を選べる社会において、母は女を選んだのに間違って男の僕が生まれてしまった」という状態なので、ひとまず「間違った性に生まれたジレンマ」といった感じでしょうか)に焦点をあて、Anyway, Anyhow, Anywhereで男達の別れの言葉を歌い、My Generationで思春期を過ぎた十代の若者の怒りを浮き彫りにした。今言ったことを全部初期のシングル何枚かでやってしまったというのを考えてもみてくれ。つまり『TOMMY』に取り掛かるまでに、これは曲のテーマに取り上げられないと思うようなものはほとんど何もなくなってしまった」

創作意欲の面は問題なかった。Townshendは多様なシングル曲のみならず、1966年には初めての10分間のロック・オペレッタ「A Quick One While He's Away」を見事に書き上げたし、同様に意欲的な曲「Rael」は1967年の3rdアルバム「THE WHO SELL OUT」に収録されたもので、すでにライブでは取り入れていた「TOMMY」の「Sparks」のリフが姿を見せていた。

深刻だったのは資金の問題だった。とにかく金が不足していた。1965年、1週間に稼ぐ金額の平均が20ポンドだった頃、Townshendは150ポンドのギターを分割払いで買っては叩き壊していた。負債はすぐに膨れ上がり、悪いことに一時彼らのプロデューサーだったShel Talmyとのいざこざも長引いていた。その頃のThe Whoは既にトップ10ヒットを7曲も抱えていたが、肝心のナンバー1は未だに取ることができないでいた。

1967年の11月、「I Can See For Miles」をリリースしたTownshendは、何もかも見通して相手の心変わりを激しく糾弾し、サイケ風に歪んだギターの音色が響き渡るこの曲こそが、全てを変えてくれるはずだと思っていた。彼は自分がやっと華々しくチャートを飾れるフー・クラシックを書き上げ、これでようやく溜まった借金から解放されると信じて疑わなかった。

「本当にそう思ったんだ」彼は頷いてみせた。「ついにやった、こいつが俺の最高傑作だ、って。だが発表後大した人気は得られなかったよ。(笑い)俺はこの曲が世界でナンバー1を取れると思っていた。マネージャーのKit Lambertがこの曲をクラシックの作曲家のWilliam Waltonに送ったんだが、彼は『これはポップ界の天才による見事な作品だ』という感想を返してくれた。俺は考えた、『いよいよだ、この曲がリリースされたら俺は比類なき天才として世の中に認められるぞ!』と。そして、もちろん何も起こりはしなかった。アメリカでは少しは売れてラジオでかかったりもしたが……10位かそこらで終わってしまった」
(※実際にはアメリカで9位、イギリスで10位)

「それで思ったよ」(肩をすくめ)「俺達はもうおしまいだって」

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by yukie909 | 2004-04-01 14:39 | article
2004年 04月 01日
April 2004 / Uncut interview:The truth about The Who, Tommy and me (preface)
[原文] Uncut誌2004年4月号に掲載されたインタビュー。
The truth about The Who, Tommy and me (preface) (雑誌掲載記事の為、リンクなし)
※Words by Simon Goddard
2004年はじめに行われた「TOMMY」がテーマの長いインタビュー。ロッキング・オン誌2006年4月号にも全訳が掲載されています。ただしここで訳した前置きの部分や、本文中でも特にインタビュアーの主観が見られる部分等はカットされていました。
2年前に翻訳して他の場所で公開していたものですが、今回アップするにあたって多くの部分を直しました。


彼は遅れてきた。そして私の周りの皆がしきりに恐縮した。Uncutの記者をたっぷり30分以上待たせてようやくPete Townshendが トゥイッケナム・スタジオに到着した時、彼がわざわざ謝ったからだ。彼の弁明?「ガールフレンドと食事してたんだ」というものだった。離れたミキシングルームへと私を案内し、息を切らせて階段を上りながら彼は続けた。「そして現代のポップ・ミュージックが持つ問題点について議論しあっていた。時が経つのも忘れてしまったよ」私は彼に気にしないでほしいと言った。たった3分間という最も短い革命の数々を生み出してきたこの人が、長い時間が経った今もなおその手段について大きな関心を寄せているということを知って安心しながら。「本当に申し訳なかった」彼は繰り返した。

小さな防音のミキシングルームは壁の全面がガラス張りになっており、下を流れる川を素晴らしいパノラマ・ビューで眺めることができる。Townshendがインタビューの場所としてこの部屋を指定したのは、彼がこの眺めを気に入っているからだと私は思い込んでいたが、実際には彼は特別な理由があってこの場所を選んでいた。12ヶ月前、まさにこの部屋で伝説的なロックオペラ「TOMMY」が1969年ステレオマスターから5.1chサラウンドバージョンにリミックスされたのだった。「この部屋でテープを聴いて軽くショックを受けたよ」彼は後に語った。「俺が覚えていた音と違うんだ」

我々がコートを脱いで腰掛けたばかりの時には、その最も待ち望まれた「TOMMY」のリマスター作業について、きっと純粋に2004年5月に迎えるリリース35周年を記念して行われたに違いないと私は考えていた。「そうじゃないんだ」彼は携帯電話をミキシング・コンソールに置きながら訂正した。「去年逮捕されて他に何もやることがなかったからさ」彼の声はやや小さかったが、穏やかだった。「ただそれだけの理由だよ」

Peteの広報担当によると、今回の取材は英国の音楽メディアでは逮捕後初の直接のインタビューになるということだった。彼は落ち着いて対処できるeメールでの取材を好む。(我々が前回彼とコンタクトしたUncut誌68号のインタビューも同様だった)また、我々は「逮捕」について触れないよう事前に求められた。彼は2003年1月にポルノサイトにアクセスする為にクレジットカードを使ったことを認めてスコットランドヤードに取り調べを受けていた。

「2、3ヶ月待たなきゃいけないってことがわかっていた」彼は椅子にくつろぎながら言った。「警察が俺の家からコンピュータを12台持っていってしまった。彼らは1ギガ確認するのに1週間かかるだろうから、いつまでも終わりそうもないし、こっちは仕事にならない。クソ、何ができるだろう?って思ったんだ」

まるで運命のように、取り調べと「TOMMY」のリマスターの依頼が同時にやってきた。Townshendはただちに承諾して、警察がせっせとハードディスクから情報を取り出している4ヶ月の間作業に集中し、魔女狩りに沸き立つタブロイド誌の攻撃をかわすよう努めた。Townshendは自分が有害サイトにアクセスしたのは純粋に調査の為であり、インターネット上に児童ポルノが蔓延している危機感を伝える目的であったと常に主張してきた。裁判所は2004年5月にようやくその主張が認めて彼をホッとさせたが、法律の一環として警告が与えられ、彼の名は英国の性犯罪者リストに今後5年間登録されることとなった。レコード会社からの注意は別としても、私は今回Townshendに逮捕の件を持ち出してもらうつもりはなかった。その件は「TOMMY」とは全く関係がないのだから。少なくともインタビュー前にはそう考えていた。

「だから、リマスターに取り掛かった理由はそういうことだ」彼は続けた。「だが、感情の源泉に立ち戻らなくてはいけないと俺が考えたのもまた理由の一つだ」彼はしばらく黙り、慎重に言葉を選んだ。「TOMMYは俺の傷けられた子供時代の形跡を見つめ直す為のスタート地点だ。俺が目を背けて気づかないふりをしていた過去を」

それから彼はその後90分かけて、逮捕にまでつながってしまった自分自身の児童虐待の被害者に対する強いこだわりと「TOMMY」という作品とは、切っても切れない関係にあるということについて説明してくれた。ロックオペラというものを打ちたて、The Whoを破産から救いだし、それどころか大金持ちにし、ハリウッド映画やブロードウェイのミュージカルにまで広がり、そして彼の言葉を借りればこの素晴らしきイギリスのロックンロールバンドを結局は「破滅させた」アルバム。それが「TOMMY」だった。


(Chapter 1に続きます)
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by yukie909 | 2004-04-01 03:36 | article