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2006年 10月 23日
23 October 2006 / Experience Burka - here I come......
[原文] 2006年10月23日の公式サイトの日記。
Experience Burka - here I come......
環境破壊について憂いつつも、複雑な心境を述べる日記。全体的にあまりうまい訳ができませんでした。なおタイトルのブルカとは、伝統的にイスラム世界で用いられている女性がかぶるヴェールのことです。


私はここイギリスで、最近は毎回気の滅入るような統計リストが1面を飾っているIndependent紙を毎日読んでいる。またアメリカの大手新聞数紙の主要記事を載せているInternational Herald Tribune紙にも目を通している。週末にはSunday Times紙を読む。他にも何紙か読んでいるものがあり、時にはGuardian紙やTelegraph紙を手に取ることもある。

それらの新聞を楽しんで読みつつも、自分が怪物か何かだと言われているような気がして最後にはぐったりしてしまうことがよくある。私は毎晩携帯電話の充電器をコンセントから外すとは限らないし、燃費の悪い車を毎年数マイル走らせるからだ。

作品を売る為にどうしても新聞を必要としている、後悔に押しつぶされた有名人の一人として、私はその2つの点において自分が怪物であることと、自分が変わろうとしていることを認めなければならない。もし私がその悪癖のうちどちらかをしているところを見かけたら、公衆の面前で制裁を加えてもらって構わない。私の車のフロントガラスに充電器を貼り付けるのでもいいし、私の手によるあらゆる汚染やエネルギーの無駄遣いを制することができるならどんなことでもいいだろう。

私が毎年処分している、何百ポンドの重さにもなる新聞紙は環境にどのような影響を与えるのだろうか。私は新聞と雑誌をそれぞれリサイクルに出している。そうしながら、仮説に基づくIndependent紙の1面の警告でそれが時間の無駄だと言ってくれるのを待っている。いつか読むことになるのを私が期待している見出しはこういうものだ。
「リサイクルに出される新聞紙のほとんどは必要性が無く、シュレッダーにかけられ埋め立てられている」
そのような統計は決して新聞には書かれないような気がするが。

新聞記事を必要としない手段として日記を書くことにより、私はしばし自分を慰めている。だが勿論問題は起こる。私が日記を書くのに使っている電気と、それを読む為に人々が使っている筈の電気の量は、私が書いている文章の価値とは不釣合いだ。毎日新聞に書かれている内容のほとんどと同じように、我々は子供達の未来のための明るい希望を与えてくれるような価値あるものを探し続けている。

そして現在、希望とは我々が既に手にしているものだ。なぜなら悪夢にうなされずに済むよう、我々がすぐに変わることができる見込みは全くないからだ。この10年という短い間に我々は家中を電気製品でいっぱいにしてしまった。それらの器具はいつでも使えるようにスタンバイ状態で、そうでなければ時計をリセットしなくてはならないようになっている。我々は最低3個の携帯充電器を常時電源に繋いでいる。眠りにつく時には暖房を入れっぱなしにする。未来への不安感のために夜中に叫びながら目を覚まして、キッチンに座りこみ、必要な分だけのお湯をきっちりと沸かして念入りに淹れたカモミール・ティーを飲みたくなるかもしれないからだ。我々は混乱している。「省エネ・カー」を新しく買うことによって環境資源を更に無駄にするのと、古い車に乗り続けて使う時間を減らすようにするのと、どちらを選ぶかというのも難しい問題だ。我々が何をするかではなく、我々がどんなことをするように見られるかが最近では大きな意味を持つ。

10年かけてこの変化が起こった。86歳の私の母でさえ仕方なく携帯電話を持つようになっている。母の住む部屋には恐らく彼女が調節できないほど操作方法が難しい暖房機器が入っているだろう。母が電源を入れたことも、もしくは切ったこともないようなビデオデッキもある筈だ。なんと皮肉なことだろう、多くのメーカーや業者にとってはそれらは既に「時代遅れの」ものになっているのだから。そしてよく「強欲」と責められる私の世代は、北極・南極の氷が溶けていくことや気候が変化していることについて、1967年には既に語り始めていた。何にもなっていない。1959年に反核について何にもならない活動をしていたのと同じだ。正に反ユートピア的な私の作品、1971年の「LIFEHOUSE」(そう、私はこの作品をまだ諦めていない)では、ひどく汚染されてほとんどの人が家に閉じこもっている世界が舞台となっている。物語中の民衆は「グリッド」に繋がったスーツを着て生活する自由によってもたらされる恩恵を享受する。彼等はそれさえあれば食事や飲み物、充分な娯楽を受け取り、平穏な生活を続けていられる。1971年当時、私は今になって「未来への恐れ」と名づけた精神状態に苦しんでいた。その頃は2人の小さな子供がいたが、私はまだ若く、それまで起こったことは全て自分の責任ではないと信じていた。

現在私ははっきりと変わることができたし、もし変わっていないとしたらそれは私の落ち度で、自分に責任があり、責められるべきことだ。すると、「何とかして新しい音楽を観客に届けたい、そうすれば環境問題に目を向けることも人々に希望を与えることもできる」と考えている私のような現代のミュージシャンにとって、(自分のすること全てに巨大なエネルギーが必要となることを考えて)世間から完全に姿を隠してしまう方が意味があるのだろうか?それとも自分がどれほどつつましく暮らしているか、どれほど自分がこの問題について意識しているかを声高に言い立てるべきなのだろうか?私がそのどちらかの方法を実践して、誇らしげにそれについて語ったとしたら、私は瞬く間にマスコミの人間達に笑われるのではないか?

新聞紙をリサイクルに出して、広過ぎる家を不要な照明がつけっぱなしになっていないか見回った後、暖房もろくにつけない暗い部屋で貧弱なアームチェアに座り、買いこみ過ぎた新聞を読むという週末をもう一度過ごした後、私は自分の置かれた状況そのものについて正しい判断ができる人間がどれほどいるものだろうかと疑問に思った。優れたバランス感覚を持つことは可能なのだろうか?

論点がすりかわっていることはわかっているし、イラクからサダム・フセインが排除されたことに対する他人とは異なる自分の意見を正当化しようとしていると非難されるだろうが、1991年に彼がクウェートから撤退した時、油田に火をつけた為に空は光を失い、その幼稚な行動によって取り返しがつかない程に地球全体の温度が上がった。またそれにより発生した毒素で、同地域やその周囲では数え切れない程の人々が癌をはじめとする医学的な問題に苦しめられることになった。

我々は大きな視点で見るべきだろうか、それとも小さなことに目を向けるべきだろうか?なぜなら、健気な民衆は神様の役を演じるメディア王たちの指図で自分から墓に入ろうとしているが、欧米社会が彼等に対してしうる最もひどい仕打ちとは、自分達の生活様式を恥じる感覚を失った状態に彼等を追い込むことだからだ。


by yukie909 | 2006-10-23 00:03 | diary


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