2004年 04月 01日
April 2004 / Uncut interview: Chapter 1 - Losing The Who
[原文] Uncut誌2004年4月号に掲載されたインタビュー。
Chapter 1 - Losing The Who (雑誌掲載記事の為、リンクなし)
※Words by Simon Goddard
第1章は「TOMMY」誕生以前の話です。


Pete Townshendが1966年5月19日に21歳の誕生日を迎えた時、彼はすでに60年代を代表する若者のアンセムを3曲作り上げていた。ポップ・アートの崩壊を示した「Anyway, Anyhow, Anywhere」、階級意識への怒りをあらわにした「Subtitute」、そして何よりも衝撃的な、上の世代に向けて口汚く「フ・フ・ファックオフ!」と言い放つ「My Generation」。Lennon/McCartney、Jagger/Richards、そしてRay Davisらがもてはやされていた時代において、独自の世界を持つ作曲家Townshendの登場は特筆すべき出来事だった。

バンドとしてのThe Whoの存在もまた突出していた。Beatlesがメロディを、Stonesがセックス・アピールを、Kinksがリフを武器としていたなら、The Whoの切り札はワイルドな攻撃性だった。Roger Daltreyの浮かべる冷笑、John Entwistleの揺るぎなさ、Keith Moonのドラムを粉々にする程のアナーキーさ、そしてTownshendの存在。そこには、このシェパーズ・ブッシュの4人の乱暴者達がステージ上で楽器を叩き壊していない時には、ステージの外でお互いに壮絶な殴り合いをしているのではないかと思わせる何かが伺えた。(そしてそれは当たらずとも遠からずと言えた)The Whoは60年代半ばのティーンエイジャー達の怒りを他の誰にもできない方法で代弁した。バンドの破壊パフォーマンスはただ若者が癇癪をおこして暴れるというようなものではなく、Townshendがイーリング・アート・カレッジでの学生時代に関心を寄せていたドイツのコンセプチュアル・アーティストGustav Metzgerによる「自己破壊」マニフェストにヒントを得ていた。

Townshendのモッズ的怒りの表現は鋭い知性に裏打ちされたものだった。外へと向けられる若者の怒りと心の内での思慮という二つの相反するもの同士の関係については、1966年1月に放映された若者向けの番組「A Whole Scene Going」で詳しく描写されており、私はインタビューの前夜に忘れずに見返してきた。Townshendは生意気ながらも率直な態度で、ドラッグをやっていると言って観客を失望させたと思えば、その1分後には深遠な考察を語って彼等を悩ませるといった具合だった。不機嫌そうな顔をしつつはっきりと自分の意見を口にし、背中を丸めた姿勢で質問に答える間、彼は体をゆっくりと左右に揺らしていた。

今回のインタビューの途中、彼が椅子の上で体を揺らし始めた時、私はデジャ・ヴュのような感覚に襲われた。昔より丁寧に受け答えをし、 59歳を迎えた彼には当然のことながら残り少ない髪も白くなり、あごひげを蓄えるようになったが、この昔と同じ癖や話す時の真剣さ、率直さを見るに、2004年1月のPete Townshendは1966年1月の彼とほとんど変わらないと言ってもよかった。

先日The Observer誌が「できればインタビューしたくない相手」と彼を呼んだ程、本題から外れて気まぐれに話をそらすという悪評ばかりが先に立っているが、彼は今もなお人を惹きつける話し手である。次から次へと話題を変えていく様子はまるできわめて知的な(そしてほんのわずかに気の違った)大学学長のようだった。

彼が点と点を結びつけたことにより、
(※TOMMYという)大きな絵を覆っていた霧が消えていった。Tommyに関する「どうやって?」「なぜ?」そして「一体何なんだ?」という謎を解く為には、The Whoの起源にまで遡らなくてはならないとTownshendは主張した。カタルシスを呼ぶような、言葉にできない気持ちとパワーコードのうなりから成るデビューシングルの「I Can't Explain」が、1965年初めにトップ10入りを果たした時から話を始める必要がある、と。

「Whoの歴史を考える時に、」と彼は語りはじめた。「忘れられがちなのは、出発点となったI Can't Explainが必死になってThe Kinksを真似して作った曲だったということだ。俺は心底Ray Davisを崇拝していた。いや、崇拝
(※worship)という言葉は違うな……賞賛(※exalt)していた。RayだけじゃなくてDave Daviesのことも。Kinksはとにかく素晴らしかった。アメリカ人は『Beatles、Stones、The Who』と並び評するが、俺にとっては『Beatles、Stones、The Kinks』だ。三大バンドといえばその3つに決まってる。だからただKinksをコピーしただけのI Can't Explainですら、何とか控えめなヒットになった。だが俺は『これで当座の家賃は凌げるが、その後はまた元通りそれまで学んでいたアートの世界に戻ることになるだろう』と考えていた。(※音楽で身を立てることになるとは)思いもよらなかった」

ある夜、Townshendはメンバー達が生まれ育った西ロンドンでGoldhawk Roadから来た不良少年の集団に囲まれた。その時に彼がはじめて気づいたのは、それまでただの盗作や「音楽的センセーショナリズム」に過ぎないと軽視していたものが、ずっと勉強してきたヴィジュアル・アートなどよりも、実は自分の創造性と若さゆえの怒りを表現する為に有効だったということだった。彼はその時のことを今でもはっきりと覚えている。

「一番偉い奴が出てきて俺に言うんだ。『I Can't Explainはすごい曲だ』俺は『はいはい、どうも』と適当に受け流した。すると相手は言う、『いや、あなたはわかってない。あの曲こそ俺達の気持ちを歌っている』それでも俺はまだいい加減な返事をしていた。すると彼らは俺に掴みかかって(拳骨を振りかざす)『いいや!お前は何もわかっちゃいない!』ときた。そして俺は心の中で思ったんだ、『そうだ、確かに俺はわかっていなかった』と。彼らと別れた後、歩きながらこう考えたことををよく覚えている。『大事なことに気づいたぞ。俺が現代社会におけるひとかどのアーティストになる時がきたようだ。彼こそ俺達の観客なんだ、俺達はすぐにでも彼らみたいな人間の気持ちを代弁することができる。それが俺の仕事だ』
(※最初のリーダーの言葉、"This really means something"のthisがI Can't Explainを差すというのは飛躍した取り方かもしれません。参考までに、同じ状況について1993年にPeteが別のインタビューで語った部分を抜粋します。この内容からThis=ICE?と推測したので。→P:でも「アイ・キャント・エクスプレイン」が出ると、シェパーズ・ブッシュのゴールド・ホーク・クラブからどっとガキが出てきて、どもりながら僕に言うんだ。「こ、こ、これこそ、僕たちの歌だ。あなたは僕たちがずっと言いたかった事を言ってくれた」それで僕は言った、「へぇ、僕はなにを言ったっけ?」すると彼らが「僕たちは自分の感じている事をうまく言えないって」それを聞いて僕は「いや、僕が実際に言ってるのは、きみらにはきみらの感じてる事をうまく言えないってことだ」。でも彼らは「とにかくこれなんだ、あなたにもっと作って欲しい、もっと何か書いて欲しい、いますぐかいてほしい」)
そいつらが薬をキメたモッズの集団だったのは確かだが(にやりと笑う)、何もないよりずっと良かった。Spike Milliganもよく言ってただろう、「ただのキッチンの流しでも僕には我が家」ってね。(※元の文は"It's only a kitchen sink, but it's home to me"。50年代のラジオのコメディー番組「The Goon Show」で、Spike Milliganにより書かれた脚本に"It's only a luxury 50 million pound villa, but it's home to me"というSeagoonの台詞があり、これをもじったもののように見えます)
この時からThe Whoは以前よりも目覚ましくパワフルになり、また重要な役割を帯びるようになった。ロンドンに移ってきたモッズという小さなグループは、既に社会への不満や公民権に関することまでも主張するようになっていた。俺達はモッド・ムーブメントの後ろを追いかけはじめ、なんとかうまく流れに乗ることができた」

1年の間にThe Whoはそれまでの労せず美味しいとこどりをする目立ちたがり屋という存在から、少なくともチャートの上でモッズ達のリーダーへと成長を遂げた。
「俺達はとにかくひたすらイメージ的なものを取り入れた。ポップアートミュージック、ユニオンジャックのジャケット、俺がこだわっていた自己破壊、アートカレッジを終えた後に浮かんだアイデアなど…」
彼が言うには、彼らのコマーシャルとの蜜月時代は65年の初めから67年の終わりまでだった。
「それから俺達は下降線を辿りはじめた。俺達は自分の場所を確保していたけど、それは他の誰かがいられる場所じゃなかった。つまり、俺達は3分間シングルでも、皮肉をこめた曲でも、危険をはらんだ曲でも、セクシャルな曲でも、何をやってもよかった。俺は痩せた子供が煙草のせいで早死にして太った子供が長生きする曲を作り(=Little Billy)、Pictures Of Lilyでマスターベーションを取り上げ、I'm A Boyでトランスセクシャル
(※この語そのものは「自分の内面・精神とは逆の性別の身体に生まれてしまった人」に対して使われますが、この曲の場合は「生まれる子供の性別を選べる社会において、母は女を選んだのに間違って男の僕が生まれてしまった」という状態なので、ひとまず「間違った性に生まれたジレンマ」といった感じでしょうか)に焦点をあて、Anyway, Anyhow, Anywhereで男達の別れの言葉を歌い、My Generationで思春期を過ぎた十代の若者の怒りを浮き彫りにした。今言ったことを全部初期のシングル何枚かでやってしまったというのを考えてもみてくれ。つまり『TOMMY』に取り掛かるまでに、これは曲のテーマに取り上げられないと思うようなものはほとんど何もなくなってしまった」

創作意欲の面は問題なかった。Townshendは多様なシングル曲のみならず、1966年には初めての10分間のロック・オペレッタ「A Quick One While He's Away」を見事に書き上げたし、同様に意欲的な曲「Rael」は1967年の3rdアルバム「THE WHO SELL OUT」に収録されたもので、すでにライブでは取り入れていた「TOMMY」の「Sparks」のリフが姿を見せていた。

深刻だったのは資金の問題だった。とにかく金が不足していた。1965年、1週間に稼ぐ金額の平均が20ポンドだった頃、Townshendは150ポンドのギターを分割払いで買っては叩き壊していた。負債はすぐに膨れ上がり、悪いことに一時彼らのプロデューサーだったShel Talmyとのいざこざも長引いていた。その頃のThe Whoは既にトップ10ヒットを7曲も抱えていたが、肝心のナンバー1は未だに取ることができないでいた。

1967年の11月、「I Can See For Miles」をリリースしたTownshendは、何もかも見通して相手の心変わりを激しく糾弾し、サイケ風に歪んだギターの音色が響き渡るこの曲こそが、全てを変えてくれるはずだと思っていた。彼は自分がやっと華々しくチャートを飾れるフー・クラシックを書き上げ、これでようやく溜まった借金から解放されると信じて疑わなかった。

「本当にそう思ったんだ」彼は頷いてみせた。「ついにやった、こいつが俺の最高傑作だ、って。だが発表後大した人気は得られなかったよ。(笑い)俺はこの曲が世界でナンバー1を取れると思っていた。マネージャーのKit Lambertがこの曲をクラシックの作曲家のWilliam Waltonに送ったんだが、彼は『これはポップ界の天才による見事な作品だ』という感想を返してくれた。俺は考えた、『いよいよだ、この曲がリリースされたら俺は比類なき天才として世の中に認められるぞ!』と。そして、もちろん何も起こりはしなかった。アメリカでは少しは売れてラジオでかかったりもしたが……10位かそこらで終わってしまった」
(※実際にはアメリカで9位、イギリスで10位)

「それで思ったよ」(肩をすくめ)「俺達はもうおしまいだって」

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by yukie909 | 2004-04-01 14:39 | article


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