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2012年 09月 30日
'Who I Am' book review by Rolling Stone
[原文] 2012年9月28日のRolling Stone公式サイト掲載の記事。
Book Review: Pete Townshend's 'Who I Am' Could Be the Most Conflicted Rock Memoir of All Time
何年も前から書いてる書いてると繰り返していた自伝がようやく発売となります。『ローリング・ストーン』誌で星4つ半を獲得した書評を訳してみました。管理人も一ファンとして予約していますが、544ページというボリュームを読みきれるかどうかちょっと自信がありません。それでも本人曰く「1,000ページあったのを削った」とのことです。


これまで長く音楽によって自己をさらけ出してきたピート・タウンゼンドだったが、引き出しにはまだ秘密を隠し持っていた。そしてとうとう『WHO I AM』にてそれを解禁する。長く待たれていた彼の自伝は実に深く掘り下げられており、そこまで自分を痛めつけて良いものかと思われるほどに率直な内容となっている。ロックの神と崇められる彼が、人間としての弱さを洗いざらいぶちまけた。本書で見られるタウンゼンドの姿は終始傷つきやすく、特に幼い頃に受けた性的虐待のつらい思い出はその最たるものである。親にそばにいて守ってもらえずに加害者のなすがままにされた、そのような幼少時の経験について、彼はイギリスの戦後世代の象徴と見ている。このトラウマは1969年の『トミー』の成功へと繋がった。しかしそれによって生まれた怒りや恥辱感、自分には価値がないという感情は、努力の末に音楽界で頂上にのぼり詰めた後でさえも、彼の胸から消えることはなかった。

タウンゼンドはザ・フーがホテルの部屋を壊し続けた日々やキース・ムーンの狂気に関する多くのエピソードを挙げている。また、ドラッグやセックス(『ミックは私がファックしたいと真剣に願った唯一の男だ』、等)についてもざっくばらんに語っている。空いたグラスと割られた鏡の数は相当なものである
(※empty glasses and smashed mirrors、Peteのアルバム名や『トミー』とかけています)。しかし彼はロックスターの神話が失われることを恐れてそうした訳ではない。むしろ自身の欠点や矛盾(「怒れる不良少年」として荒々しくギターを弾くステージでの自分とそれに対する内省的な作曲家の自分、精神的な求道者としての自分とそれに対する快楽主義的な麻薬中毒者の自分)を探ることで祭り上げられた状態を止めたいと願っているかのように感じられる。彼はコカインと酒に溺れて何年も無駄にしてもなおミハー・ババの信者となった。彼は語る。「精神的に何かを求めようとしても、あまりにも世俗的な野望に常に周りを囲まれ、懐疑主義と両面性に傷つけられ、そして性的な渇望を抱え込んでいた……正直に言って完全なろくでなしとして振舞うことだってできた」

彼は古くからの仲間達についても綴っている。ロジャー・ダルトリーを「自他共に認めるリーダー」とし、ジョン・エントウィッスルについては懐かしい日々の思い出と共に振り返る。「2人で話していると、いつも安物のギターを手にしたアクトンに住む13歳の少年の頃に戻ったようだった。フィッシュ&チップスを食べながらシャドウズのように売れっ子になることを夢見ていたあの頃に」
また彼はザ・フーがライブ・バンドとして高く評価されていることを誇る。ビル・グレアムのプロモートによりメトロポリタン・オペラ・ハウスで『トミー』の公演を行った際、バンドがステージから下りるのを観客が許さなかったというエピソードでは、タウンゼンドは楽屋でこう豪語した。「ビル、俺達をステージに上げるのは簡単だ。下ろす方がずっと難しいぜ」

しかし彼は自分の功績をずらずらと並べ立てたい訳ではない(例えば自身の傑作であるソロLP、1972年発売の『フー・ケイム・ファースト』についてはたったの一言も触れられていない)。その代わりに、彼は自分の欠点と不安定さを認めようと努めている。80年代前半、バンドがキース・ムーン抜きでやっていこうと足掻いた後に、タウンゼンドは気が変になりそうだと感じていた。彼の言葉を借りると「私はパーティ好きな男、名誉あるパンクの遊び人兼年長の指導者として振る舞い始めた……マフィアのようなだぶだぶのスーツと厚底の靴を履き、薄くなった髪をロックンローラーっぽく頭の上にかき集めてね。私のダンスはなかなか上手かった。イディオット・ダンス
(※60年代後半に流行したダンスのスタイル。その場で立ったまま腕や手を激しくくねらせたり、振ったりする。キンクスの曲にも登場)はもうやめにして、クラッシュのミック・ジョーンズやポール・シムノンみたいに踊ったんだ。当時私は34歳で、まだ若かったからうまくやってのけることができた」

だからといって、ピート・タウンゼンドのことを彼を愛する内気な十代のファンと同じぐらい自意識過剰だと考えるのはおかしな話だ。彼は一人のアーティストとして、男性として、父親としての自分に深い疑いを抱いてもいる(本書には80年代前半に彼の娘から送られた、ラジオで『ユー・ベター・ユー・ベット』を耳にしてパパを恋しく思ったという悲しいメモ書きが紹介されている)。誰もが彼の文体をあまりにも格調高いのではと予期していたことと思うが、そんなことはない。青い瞳の裏側で悪い男になること、悲しい男になることはどのような気分なのか、恐らく誰にもわからないだろう
(※『ビハインド・ブルー・アイズ』の歌詞の引用)。しかし『WHO I AM』こそは私達が彼に近づくことができる最良の手段である。

# by yukie909 | 2012-09-30 01:47 | Memoirs
2009年 02月 15日
A Different Bomb
[原文] 2002年1月16日にピートの個人サイト上でPDFファイルの形で発表された文章。
A Different Bomb (画像。読みやすいです)
A Different Bomb (テキスト。コピーペーストできます)

ピートは逮捕よりずっと前に自身のサイトにこのテキストを載せていました。
もしピートが児童ポルノ画像を収集・閲覧するひそかな趣味を持ち合わせていたとしたら、自分はそんなものとは一切関わり合いはございませんという顔をしているのが普通であり、自ら進んでこんな文章を発表するわけがないと言えます。


違う爆弾
2002年1月

“クラウド”に捧げる

先週、私の友人が自殺した。彼女は40代の女優で、アルコール中毒を克服しようとしているところだった。私自身も元アル中患者ではあるが、彼女についてよく知るようになったのは、私が行っているアルコールとドラッグのリハビリが必要な人々に向けた基金集めの活動を通じてのことだ。私達が出会ったのは7年ほど前のことだった。ある時、広い年代の男女が集まる公開カウンセリング・セッションで、彼女は自分の心の大きな位置を占めていた事柄を突然告白しはじめた。物心ついたほんの少女の頃から、彼女は実の父親から定期的に性的な虐待を受けていた。また父親が見ている前で、彼の友人複数からも同じ目に遭った。最初に彼女は父親のことを「聖職者」と説明したが、後に彼らがある種のカルト宗教のメンバーであったことを明かした。そして昨年、私が携わっていたチャリティが、彼女がプライオリー
(※ロック歌手の薬物治療等で有名なロンドンのリハビリ施設)で鬱病患者の為の治療を受ける費用を負担することになった。施設を出る頃には彼女の病状はかなり改善した。それは恐らく自分の話を皆に信じてもらえたからということもあるだろう。彼女は安心感を得て、また様々な新しい治療法によって更に良くなる見通しが立った。入院する必要もなくなった。

しかし数週間のうちに、彼女の心は再び揺らぎはじめた。彼女は再度入院して治療を受けたいと懇願したが、その費用を提供する基金はもはや無かった。1~2か月後、彼女は感情面において再びスタート地点に立っていた。つまり、どん底に。愛情と喪失感との間の行ったりきたりを繰り返す不安定な彼女を、友人達は我慢強く支え続けた。彼女は朗らかで、素直で、エネルギッシュで、頭のいい女性だった。しかしいつも愛情に飢え、他人の関心と助けを求めていた。その結果、彼女は疲れ果ててしまったのかもしれない。同様に少女時代に性的虐待を受けていた女性達を含む、彼女を助けてきた者全員にとって、彼女の自殺は悲劇であるとともに、狂気の沙汰でもあった。アルコールとドラッグの誘惑に溺れたことのある全ての人々と同様に、彼女もまた自分を襲う妄想に悩まされていたのは確かだが、彼女を自殺まで駆り立てるきっかけとなったのは彼女自身の妄想などではなかった。彼女が自殺したのは、自分の父親が新しく数人の子ども達と関係を持っているという事実を知ってしまったからだった。

それを考えると、子どもの頃に性的虐待を受けたことのある大人にとって最大の恐怖となるのは、他の子ども達もかつての自分のように苦しめられているのではないかと思うことなのかもしれない。

私の過去の作品、特に『トミー』では、私は子どもの登場人物達にとってあまりにも残酷な世界を創り出した。作品を書く時には、私はページの上に生みだされていくものに自分でたじろいでしまうことが度々ある。特に、子ども時代の経験を元に何かを書いた時にはそれが顕著だ。幼い頃に虐待された経験のある人々から、 トミーという登場人物に自分がどれほど共感したかを伝える手紙を何通も受け取った。しかし私の著作の中で何より力を持ち、時には最も制御やモデル化が難しいのは、私が創作の元としている、“私にもどんなものかよくわからない”要素だ。それは間違っていたものにも大人として理解を示そうという気持ちよりも、友人を虐待した相手に対して何としても復讐してやりたいと願う、私の中の何か不確かなものだ。

私自身は性的虐待を受けた具体的な記憶はないが、子どもの頃に母方の祖母から過剰なほどに支配的で乱暴な扱いを受けていたのは確かだ。だが、特に珍しいことでもない。人によってはそれぐらい大したことないじゃないかと言うだろう。私の知っている人々のほとんど全員が似たような仕打ちを経験しているし、多くの友人がもっと深刻な「虐待」を受けており、だからといって大人になってからの本人に何か明らかな欠陥があるというわけでもないのだから。

児童性愛という事柄に対する現在のマスコミや警察、イギリス政府の姿勢は、まるで魔女狩りそのものだ。それは、確かに自殺した友人のような事件の数々に対する反応としては無理もないことかもしれない。しかし私はむしろ、今までずっと秘密にされてきた世界が実際にどういうものなのか、簡単に見ることができる「自由」を今や私達皆が手に入れてしまったということが、結果的に今のような状況を生み出したのではないかと考えている。その世界とはつまり虐待を伴う児童性愛の世界のことであり、その世界へと「自由」に入っていける窓とは、言うまでもなくインターネットである。

私の知り合いで普段コンピュータを使っている男達には、自分が時々気軽にインターネットでポルノ画像を探すことがあるということを認めない者はいない。私もそうしてきた。そして、皆がやっているのはせいぜいニュースグループの一番上に来ているのはどんな画像か見てみるぐらいのものだ。私は「ハード」ポルノ、または「ソフト」ポルノについて賛成か反対か、というような議論をここでするつもりはない。重要なのは、ポルノ業者達は自分達の品揃えをコンスタントに新しくしなけらばならないと考えていることだ。こうして新しい犠牲者が日々生み出されていく。それについては雑誌やビデオの世界でもインターネットでも同じことが言える。しかし多くの人々が気づかずにいるのは、そのようなサイトにアクセスすることで我々がポルノ業者に対していかに直接的に、そして効果的に資金を与えているかということだ。これは、たまたま辿り着いたのか最初からそのつもりで探していたのか、また好奇心からかそれらを罰したい気持ちからか、等とは無関係に誰もが当てはまる。ポルノサイト撲滅のキャンペーンを行っている人々とのウェブ上でやり取りで聞いた話では、未成年のポルノがあると謳っているポルノサイトの多くは実際にはそのような画像は置いていない。「本物」のサイトの数々は、サイト本体のコンテンツとほとんど同じ内容をポップアップ・ウィンドウで表示し、検索エンジンをかき乱している。ではそれらのポルノ業者は一体なぜ訪問者の為に面倒なことをしているのだろうか?そんなことをしても彼らは金を稼ぐことができない。なぜ彼らは隠れた場所にいられないのだろうか?

自分自身の「商業的な」ウェブサイトを運営している者として、私はインターネットのサイト上で情報提供者とその閲覧者がどれほど直接的につながっているかをよく知っている。また、今ではほとんどの人が知っているとは思うが、ある種の「注目のキーワード」を検索に使った場合、インターネット・サービス・プロバイダがいかに簡単にそれに気づくかということもよくわかっている。そのキーワードとは単語や単語の組み合わせで、プロバイダはそれによって警戒を強めることになる。

この件に私がはじめて注意を払ったのは、短い間私と一緒に仕事をした男
(※ゲイリー・グリッター)が児童ポルノをダウンロードした罪で逮捕された1997年の時のことだった。私は表立って彼を非難することには慎重になっていた。彼は私のミュージカルのひとつに出演していた(※1996年のアメリカでの『四重人格』ツアーにゴッドファーザー役として出演)し、英国の音楽シーンではソフトポップ・パントマイムのジャンルで人気のミュージシャンだった。彼の裁判の際には、彼がインターネットで検索する時にいつも使っていたと言われている「ロリータ」という単語が新聞で何度も書きたてられた。裁判が始まって数週間経つと、「UK Search Terms」の調査によれば最近英国内で最も検索に使われた言葉として「ロリータ」がリストの上位になったとガーディアン紙が報じた(よく1位になっているのは『セックス』だ)。これを見ると、検索用語などはただの見せかけだと私には思える。ブラウザに「ロリータ」と打ち込んだのはどんな人達だったのだろうか?その全員が児童性愛者だとはとても思えない。それに反対している人々だっていただろう。また、一体どんな検索結果が出てくるのかただ興味を持ったというケースがほとんどではないだろうか。

ひどいことに、彼らがインターネットで辿り着いた先では、そのお返しとして逆に彼らのことを見つけている。子どものポルノがあると明言しているサイトを見つけた人が皆、その次の瞬間に「罠にかかる」とは限らないが、彼らがサイトを訪れたという記録は必ずそのサイト内に残り、そのサイトを運営しているポルノ業者は自分達の活動に対して認証商業的見込みを得る。そして、業者達はこの世界での商売にますます精を出すことになる。

多くのポルノサイトではソフトウェア・トリガーを採用している。それにより、たまたま迷い込んだ人がサイトを離れようとすると、同じような、またはさらにひどいサイトが突然ポップアップウィンドウで現れる。そのサイトの画面を閉じようとしても次のポップアップが、閉じようとしてもまた次が、さらに次が、と続き、内容はさらに露骨になる。それはブラウザの画面がポルノ画像でいっぱいになり、しまいには次々現れるものの醜悪さに窒息してしまったかのようにフリーズするまで続く。そして、それと同時に進行しているのがポルノ業者による顧客情報入手だ。ひとつのサイトがトリガーを開くと、更に1ダースかそれ以上のサイトが開き、知らないうちにその全てを「訪問した」ことになっている。そして全てのサイトにコンピュータの固有アドレスが記録されてしまう。

知り合いが裁判沙汰になったのを見ている私には、「ロリータ」はインターネットを検索する時に迂闊に使用してよい言葉ではないとはっきりわかっていた(先の調査結果を見ると英国にはそう思わない人も多かったようだが)。たとえ文学部の学位を取る為にナボコフ
(※映画化もされた小説『ロリータ』の著者)の作品について調べることになったとしてもだ。そういうわけで、私がインターネット上で初めて児童ポルノに出くわしたのは偶然からのことだった。

きっかけとなったのは、友人の映画監督イーサン・シルヴァーマンが制作した素晴らしく感動的なドキュメンタリーで、アメリカ人夫婦がロシアの少年を養子にするという内容だった。チャリティの基金集めをしている身として(多分それに加え慈善家として活動を始めたばかりだったこともあり)、そのような児童養護施設を支援したいと考えた私は、しかるべき連絡先をインターネットで見つけられないか調べてみることにした(他の手段については既に試しており、うまくいかなかった)。「ロシア」や「児童養護施設」など、様々な言葉で検索してみた。性的な言葉やわいせつな意味に取られるような用語など一切使っていないはずだった。しかし、ただ一つの例外が「少年」という言葉だ。きっとそれが浅はかだったのだろう。

その検索ワードを入力した約10分後、私の目の前に現れたのは2歳ほどの男児が顔を隠した男に犯されている「無料」の画像だった。ページ上には幼児とのセックスは「ロシアでは法律で禁じられていない」と注意書きがされていた。ただのわいせつ画像なんてものではない、実際にレイプが行われている現場だ。被害者の子どもがもしその経験の後も生きながらえて、私はたまたまその画像に行き着いただけだったとしても、この子はいつか自らの命を絶ってしまうだろう。自分の意志とは別に物事が進み、引き起こしてしまうインターネットのメカニズムのひどい現実というものを目の当たりにして、私はショックを受けた。そして電話に手を伸ばし、警察にダイヤルして、私がこの画像にたまたま出くわしたのと同じ手順を踏んでもらおうとした。そうすればポルノ業者の逮捕に繋がるだろうとの思いからだった。

しかしその後、考え直した。それほど親密なものではないとはいえ、かつて自分と関係のあった人間が現在裁判中であることを念頭において、警察に電話をする代わりに弁護士に内密にこの件を話してみることにした。彼の助言は「何もしない方が良い」というものだった。そして、「証拠」としてその画像をダウンロードするような真似は決してしてはならないと念を押した。私は彼のアドバイスに従った。つまり、一切何もしなかった。

私はこのインターネットでの経験を身近な数人に話した。私のミュージカルに出演した例の人物の裁判については誰もが話題にしていた。そしてすぐに気が付いたのが、私が話をしたうちの一部の人が私についても疑っているということだった。恐らく、本当に私が“相応しい”言葉で検索していたのであれば、そのようなとんでもない画像が出てくるはずはないと考えたのだろう。

私はその画像を見つけたことをある意味で喜んでいるというと、奇妙に聞こえるかもしれない。私はそれまで周りのことなかれ主義の友人達と同じように、秘密のコードや内輪だけのチャットルーム、暗号化されたファイル等を介してインターネットで交流している人々だけが、この種のポルノに触れているのだと想像していた。しかし今回の件をきっかけに、このような画像は誰もが使用している検索エンジンやユーザーグループを通じて「無料で」手に入ること、そしてそれらが堂々とクレジットカード払いの形で販売されていることを知った。次に私が気になったのは、幼児ポルノの「供給者」達は、扱っている画像について定期的に「新しい商品を仕入れる」必要を感じているのではないかということだ。ゾッとする考えじゃないか?それでも、そのような考えは現実とはかけ離れているのではないかという恐れを抱いていたのも事実だった。もしかしたら自分の潜在意識にある思い出を引っ張り出しているのかもしれない、あるいはただ大袈裟に考えているだけなのかもしれない、と私は悩んだ。

しかし、子どもの頃に性的虐待を受けて自殺した人々の長い列に自分の友人が加わった今こそ、思い切って声を上げなければならないと感じている。


1997年以降、私はこの件について何らかの文書の形にまとめ、広く公表しようと試みてきた。もしインターネット・サービス・プロバイダ達が警察や他の組織の「嗅ぎ回り」活動に協力し、非合法なポルノをダウンロードしている顧客の情報を提供すれば、容易に検索語にフィルターをかけることができるのではないかと思う。もしくは、定期的にそういった検索語の組み合わせを使って実際に検索し、特定のサイト名をブロックするようにすることも可能だろう。多くのプロバイダがそのような作業を行っている。彼らにとっては日頃のメンテナンスの一環だ。しかしポルノ業者は資金が豊かで、強気であり、そして幼児ポルノの分野においては犯罪行為を働いている。違法サイトは複製され、名前を変えては数日おきに場所を移していく。

なぜ私が今日突然このことを記そうと決めたのか。それは自殺した私の友人が、現在進行形で、しかし秘密裏に行われている児童性愛の連鎖の犠牲者だったからだ。児童性愛に耽る者の数は現在も少なくない。私の友人を知っていて、彼女の話を信じた人々だけが、彼女を傷つけた者に対してはっきり言ってやりたいという衝動を抱いている。しかし我々は何一つ証拠を掴んでいない。それがいら立たしいが、少なくとも彼女にとって苦悩の時間は終わりを告げた。一方インターネットの世界では、児童ポルノ撲滅に取り組むグループや個人が二つのことに辛抱強く、また必死になって取り組んでいる。ひとつはポルノ・サイトを探してはブロックすること、そしてもうひとつはインターネットが提供するものの誘惑にはまりこんでしまった人々に対して、セックス依存症患者向けの12ステップ・プログラム
(※日本語のまとまった説明を見つけられませんでした。英語になってしまいますがWikiはこちらを通じ、現状から抜け出す恐らく唯一の道を示すことだ。

今や全てが明るみとなった。私が使用しているプロバイダは、頭に「alt」という言葉をつけることでユーザー・グループにアクセスできる仕組みになっている。「グーグル」(大手検索エンジン)では、ほんのわずかキーボードを叩いただけで、実際に単語一つを入れるまでもなく、問題に思えるほど大量のアダルトサイトが検索結果にずらりと揃う。「無料」の児童ポルノ画像への道は、いわば乱れたカクテルパーティで並べられたやり放題のコカインのように広がっている。それに抗えるのは強固な意志を持った者か、とことん好奇心の薄い者だけだ。その道を模索している撲滅グループの人々は、インターネットでの「嗅ぎ回り調査」に安易に踏み込んでしまう部分がある。危険を冒すことを厭わない者が多く、道そのものを完全に閉じなければならないと固く信じている。そしてそのような道は、インターネットの世界から完全に、徹底的に根絶されなければならない。もしそれが不可能なら、ただ政府機関や警察に「嗅ぎ回られる」というだけでなく、現在活動中の彼らに反対する撲滅グループによって表立って規制されるべきだ。

インターネット上を探し回ることで、モニタの前にいる人間が実際の児童性愛の現場を見てしまうことに繋がると警察が考えているのも理解できる。被害をもたらすのは身を隠している者達だと警察は考えているのだ。私の自殺した友人に関して言えば、確かに彼らの意見に同意せざるを得ない。しかし、世界には子ども達が尊重されていない国も多い。ブラジルやロシア、タイは悲惨な児童養護施設の現状やストリート・チルドレンに関する問題でよく知られており、多数のサイトに画像を提供しているのは恐らくそれらの国だ。

ドラッグとアルコール中毒からのリハビリという分野で基金を集める中で、私は幼少期に受けた虐待によって引き起こされた問題を抱えている何百人もの人々に、イギリスやヨーロッパで出会った。全てではないが、その虐待の多くが性的なものだった。たとえごく些細なことであったとしても、様々な理由で、それにより受ける傷は甚大だ。薬物やアルコールの中毒者の全員が犠牲者というわけではない。虐待を受けたという人は少数派なのかもしれない。しかし悲しいことに、中毒に悩む者達にとって虐待は珍しいことではない。一部の例で何より痛ましいのは、いかに簡単に虐待という状態に陥ってしまうかということだ。私について言えば、ほんの小さな事件がいくつかあっただけで私自身の性質に暗い影が形作られた。ありがたいことに、その部分は『トミー』のような作品の上においてのみ現れている。子どもを虐待する者の全てがかつて自分も虐待されていたと統計的に立証されているわけではない。それは確かに起こりうることではあるが、自殺した私の友人の件にも見られるように、多くが大人が大人に対して行使する、力を持つものが恩恵を受けるシステムの一部となるものだ。しかしボルノ業者にとっては金のある相手を探して搾り取るだけの話に過ぎない。確実に言えるのは、インターネットが子どもの性的虐待という事柄を公にしたということだ。どういった社会水準においても、それは決して「まともな」ものでも「容認できる」ものでもない。ただ単に、隠されていたものが明るみに出たというだけに過ぎない。

友人の葬儀から戻ってきた人々の多くが、会場にいた彼女の父親を殴ってやりたいと感じていた。しかし彼らはその気持ちを抑えた。列席者の多くは元アルコール依存症患者だ。彼らは魔女狩りをしたいと思ってはいないし、偽善的行為には慎重になっている。だがもし機会を与えられさえすれば、多くの人々が泥酔した、あるいはドラッグで正体を失った虐待者にどんな仕打ちを受けたか、自らの体験を語っただろう。そして、彼ら自身が「酒や麻薬に溺れた状態で」行った、同様に非難されるべき行動についても告白したかもしれない。しかしもし虐待者とその加担者が必ずしも過去の虐待の被害者や、あるいは男性ではないのであれば、アルコールやドラッグの影響を受けていたとも言い切れない。酒も麻薬も現在では社会に浸透している。しかし問題のあるポルノについては、今こそその蔓延を阻止する為、より具体的な措置を取るべき時だと言える。それらはインターネットによってあまりにも手軽に、堂々と広がりつつあるのだ。

友人の葬儀から戻ってきた人々の多くが、会場にいた彼女の父親を殴ってやりたいと感じていた。しかし彼らはその気持ちを抑えた。列席者の多くは元アルコール依存症患者だ。彼らは魔女狩りをしたいと思ってはいないし、偽善的行為には慎重になっている。だがもし機会を与えられさえすれば、多くの人々が泥酔した、あるいはドラッグで正体を失った虐待者にどんな仕打ちを受けたか、自らの体験を語っただろう。そして彼ら自身が「酒や麻薬に溺れた状態で」行った、同様に非難されるべき行動についても告白したかもしれない。しかしもし虐待者とその加担者が必ずしも過去の虐待の被害者や、男性である必要がないのであれば、アルコールやドラッグの影響を受けていたとも言い切れない。酒も麻薬も現在では社会に浸透している。しかし問題のあるポルノについては、今こそその蔓延を阻止する為、より具体的な措置を取るべき時だと言える。それらはインターネットによってあまりにも手軽に、堂々と広がりつつあるのだ。

もう一つ、危険な点がある。私が思うに、多くの子ども達が早過ぎる時期にポルノに慣れてしまってきているのは明らかだ。そして私が実際に体験したように、インターネットはレイプや虐待という最も性質の悪いショッキングな画像への道を簡単をいとも簡単に開いてしまう。


そのような悪質な画像を目にすることにより、潜在意識が深く傷つけられ、その傷跡は決して消えることはない。もしこの文章を読んでいる全員が、今からいそいそと児童レイプの画像を探し始めたとしたら、きっと見つけてしまうはずだと断言しよう。それはやめてほしいと私は強く求める。また、彼らが私のようにその手の画像を偶然見つけてしまうことがないよう切望している。もしそれが起こってしまったら、私と同じく激怒して、この先ずっと悪夢にうなされて悩むことになるかもしれない。

# by yukie909 | 2009-02-15 09:00 | A Different Bomb
2008年 10月 21日
ANYWAY ANYHOW ANYWHERE
ANYWAY ANYHOW ANYWHERE_a0062503_21325977.jpg『ザ・フー コンプリート・クロニクル1958-1978 ~エニウェイ・エニハウ・エニウェア』
シンコー・ミュージック刊

11月10日、こちらの本が発売になります。姉妹サイトを一緒に運営しているb-ko嬢とともに、長い時間をかけてこつこつ取り組んできた努力がようやく実を結びました。書店やCDショップで見かけた際には手にとって頂けたら幸いです。
来日公演決定、映画2作の公開、そして一時はあきらめかけたこの本の発売。2008年は奇跡の年です。

本の詳しい内容についてはこちらをどうぞ。

# by yukie909 | 2008-10-21 22:10 | non-Pete
2008年 08月 18日
ご連絡
いつも当ブログをご覧頂きありがとうございます。
公式サイト内に置かれている有料会員のみ閲覧可能な文章(ピートやロジャーの日記、インタビュー)について、今までここでいくつか翻訳をアップしてきましたが、この度それらの記事を全て取り下げさせて頂きました。また、今後新たに翻訳して公開することもありません。どうかご理解下さい。
元々休眠状態もいいところだった当ブログの更新頻度がこれにより著しく低下するのは目に見えていますが、まだ訳したいものも残っていますし、公式サイトと無関係な記事はアーカイブとして置いておきますので、中止や閉鎖ということはありません。忘れた頃にでもまた覗いて頂ければ幸いです。

# by yukie909 | 2008-08-18 21:20 | non-Pete
2007年 12月 21日
21 December 2007 / The Japan Times: 'I carry The Who brand with pride'
[原文] 2007年12月21日のジャパンタイムズ紙記事。
'I carry The Who brand with pride'
最近行われたeメールによるインタビュー。文中に出てくる「ドキュメンタリーの日本でのプレミア上映が決まっている」という部分は、事実かどうか未確認です。
記事を書いているローランド・ケルツについてはこちら参照のこと。ピートはリンク先で紹介されている彼の本の広告にコメントを寄せています。


私がザ・フーのピート・タウンゼンドに最初に会ったのは10年前のことで、その時はロンドンの彼の家に近いホテルにてインタビューを行った。彼は1階のスイートに元気よく現れた。椅子に腰掛け、組んだ足を揺らして、彼は情熱をほとんど抑えることなくそれぞれの質問に答えてくれた。

インタビューは2~3時間で終わるだろうという私の予想に反し、昼食を共にして語り合うことになり、最終的にはタウンゼンドが出かけなければならない午後8時まで1日中話は続いた。彼は帰り際に私にこう約束した。「もしまだどうしても聞きたいことがあるなら、1時間ほどで戻ってくるよ」

当然ながらタウンゼンドはロックの世界で伝説的な人物だ。しかしロックの殿堂入りした自身の仲間達と違って、彼は人並外れて自己批判的な人間で、誰よりも強い信念を持っており、幅広い分野で大きな成果を挙げている。ブロードウェイでの仕事ではトニー賞を獲得し、自身の短編集を出版して、80年代にはイギリスで最も格式ある出版社のひとつであるフェイバー&フェイバー社で編集者としても活躍した。2003年にはインターネットで児童ポルノのページにアクセスしたとしてイギリス警察に逮捕されるという出来事もあった。彼の容疑はその後すぐに晴れ、今となっては彼を標的としたおとり捜査だったのではないかという疑いの声も挙がっている。タウンゼンドの活動にずっと注目してきた私達のような人間にとっては、彼が幼児虐待の恐ろしさについて書き続けていたことや、ずっと昔からその関連のチャリティ活動に後援者として尽くしてきたことはよく知られた事実だ。

ステージ上においては、タウンゼンドはギターを何本も破壊してきた(最後に壊したのは偶然にも横浜でのことだ)。スタジオでは、ザ・フーが誇る2つのロックオペラである『TOMMY』(1969年)と『QUADROPHENIA』(1973年)、また哲学的なソロアルバムの数々によって音楽の既成概念を壊してきた。彼のバンド仲間は、ドラマーのキース・ムーンが1978年に、ベーシストのジョン・エントウィッスルが2002年に亡くなった。1979年には、オハイオ州シンシナティでライブ会場での圧死という事故により11人のファンを失っている。

簡単に言えば、ロック界のスターとしてのタウンゼンドは近寄りがたい人間だ。しかしパンクの先駆けとなったザ・フーという並外れたバンドと同様に、ありのままで生身の、身近な人間としての姿もまた持っている。

1ヶ月前、もう1人の残存メンバーであるロジャー・ダルトリーが来年に日本で初のツアーを行うと発表した。ポール・クローダー、そしてオスカー獲得経験のあるマレー・ラーナー監督によるドキュメンタリー『Amazing Journey: The Story of the Who』は、2008年に日本の映画館でプレミア上映が行われることが決まっている。アメリカとヨーロッパのファンには、クリスマス向けに既にDVDが発売されている。

しかし日本へ行くという話は初耳だ。62歳になるタウンゼンドはしきりにこの国を再訪したがってはいるが(『ぜひとも近いうちに日本で演奏したいと願っている』との発言あり)、今回のeメールでのインタビューでは具体的な日程についての話を出そうとはしなかった。かつて、ザ・フーは常に考えが食い違うバンドだった。メンバーのうち2人しかこの世に残っていない今でも、意見が一致しないことにかけては昔と全く変わっていない。


[Q. 2004年に横浜でのフェス、ロック・オデッセイの為に初めて短期間で日本を訪れた時のことを振り返って頂けますか?2008年の来日についてはどうですか?]

初来日は素晴らしい経験だった。(フェスのメインだった)エアロスミスのゲストとして、我々はVIP扱いをしてもらった。ここまで我々がパワフルだったとは誰も思っていなかったんじゃないかと思う。自分でも目を見張るほど良い演奏ができた。
私は日本をとても好きになったし、そのことに驚いた。ここまで日本を気に入るとは想像していなかったんだ。勿論私には日本人の知り合いも多く、皆良い人ばかりだ。だから彼らの国を好きになることは予想できたはずだった。

[Q. 新しいドキュメンタリーでは、貴方とヴォーカルのロジャー・ダルトリーはバンド仲間としての未来に対して固い決心があるようでした。キース・ムーンを失った30年よりも、今の方がバンドの未来に胸を躍らせていますか?]

かつてのロックはもう長い間死んだままでいる。ロックというものは実に発見の連続だった。一度発見されたものはもう一度再発見されるのを待つしかない。新しい若いファンの目には素晴らしいものに映るだろう。古いファンにとっては昔を懐かしむものとなるだろう。
私は1978年に燃え尽きた訳ではない。キース・ムーンにはうんざりしていた。彼が亡くなり、もうこれ以上彼のことで頭を悩ませずに済むようになって、ある部分ではホッとしていたのも事実だ。私はいつも彼はもう2度と良いライブができないんじゃないかと心配ばかりしていた。しかしまた彼の死はあまりにも痛ましいことでもあった。彼はようやく自分の弱い部分を他人に見せるようになった所だったし、あんなに魅力的な男はいなかったから。彼は親切で、愉快な性格は昔と変わらなかったが、破滅そのものに夢中になる度合いは減ってきていた。
現在、ザ・フーはロジャーと私が大きな誇りを持って維持しているブランドだが、ある程度の不安もまた抱えている。我々の作る音楽は一筋縄ではいかない。

[Q. 昨年ザ・フーの24年ぶりとなる新作『ENDLESS WIRE』が発売されました。貴方自身と聴き手が長年にわたって求め続けてきたものがようやく形になった訳ですが、これで自由になったと感じていますか?]

我々が完全に自由になるということは起こり得ないし、そうなりたいと願ってもいない。たとえそれがある程度は計算の上だったとしても、我々は古いサウンドを再現することができる。私がザ・フーのソングライターとして、これまでずっと受け入れざるを得なかったことは、イーグルスがやったのと同じことをして、ザ・フーのスタイルでアルバムを作り、それを売るというのはできないという事実だ。誰もが我々に新しい姿でいてほしい、賭けに出てもらいたいと期待している。そして同時に、始末に負えない矛盾と言えるのが、彼等は我々が昔のままで変わらないこともまた望んでいるんだ。それほど多くの部分が変わった訳ではない。私の書く曲の幅が広がったというぐらいだ。


(以下翻訳略)

# by yukie909 | 2007-12-21 00:03 | article